ここに掲載しているものは世界日報で2018年に連載されたものです。
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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(43)

『うらそえ文藝』14号に掲載された星編集長と上原氏の対談

『うらそえ文藝』14号に掲載された星編集長と上原氏の対談

軍命説の誤り認めた谷川氏 、『うらそえ文藝』で真実知る

 2009年5月、『うらそえ文藝』という年1回発行の文芸誌が慰霊の特集を組んだ。それは全国的な反響を呼び、売り切れとなった。だが、沖縄では沖縄2紙は一切、報道しなかった。

 34ページの特集記事を執筆したのは、『うらそえ文藝』編集長で沖縄県文化協会会長の星雅彦氏と上原正稔(筆者)の2人だった。その内容は、慶良間の“集団自決”について「隊長命令」を完全に否定したもの。その頃、沖縄タイムスと琉球新報は、タイムス発行の『鉄の暴風』のデタラメな記述をそのまま鵜呑(うの)みにし、報道を続け、赤松嘉次、梅澤裕両隊長を悪者に仕立て、その責任は非常に重いと断じていた。

 同年6月9日、星氏と上原は県庁記者クラブで緊急記者会見を開いた。その会見の模様を14日付「世界日報」、7月5日付「サンデー世界日報」が詳細に報道した。

 星氏は、東京の友人に『うらそえ文藝』14号を数冊送った。友人はそのうち1冊を沖縄文化に造詣(ぞうけい)の深い民俗学者の谷川健一氏に届けたところ、以下のような手紙を星氏に間接的に送ってきたのである。

 <『うらそえ文藝』ありがとう存じます。星雅彦氏は旧知の間柄で1969年から1970年、71年頃に何度もお会いしたことがあります。復帰後は交流も絶えましたが、沖縄の集団自決についての星氏と上原正稔氏の小論文、並びに両者の対談を読み、納得するところがありました。私は全面的に御両人の意見に賛意を表します。(中略)

 それにしても自決問題に違法の補償問題が根底にあることを知り、その事件の裏の真実が奈辺にあるのかがはじめて分かりました。これはとくに上原氏の勇気ある発言に感謝しなくてはなりません。星氏も『うらそえ文藝』の編集に勇気を以って臨んでいます。どうか、おついでの折、星氏ならびに上原氏に私の感想をお伝え下さい。それと共にご両人の勇気ある発言に深く敬意を表する旨を御伝えいただければ幸いです。>

 この手紙は谷川氏の星氏に対する謝罪でもあった。それにしても谷川氏は立派だ。いわゆる「大江・岩波」裁判一審、二審で「大江・岩波」側が勝訴した中で真実を認めた「勇気ある文化人」は谷川氏だけだ。谷川氏は2013年、逝去された。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(42)

沖縄2紙に抗議するデモ

沖縄2紙に抗議するデモ

消えた初版の「まえがき」、証言と食い違いも

 ここ数回にたって、曽野綾子さんの『ある神話の背景』についてその概要を紹介してきた。渡嘉敷島の住民の「玉砕」すなわち「集団自決」について、「極悪人赤松嘉次」の神話を一つ一つ突き崩していくという手法で解明しており、筆者は曽野さんを「ミステリー作家」と呼んでいる。彼女は数々の証人や記録を駆使し、読者をミステリー解明に引き込ませてゆく。

 曽野さんは「赤松神話」の元凶となった『沖縄戦・鉄の暴風』(沖縄タイムス社刊)を挙げている。実は初版の1950年8月15日、沖縄タイムス社編、朝日新聞社発行の『鉄の暴風―現地人の手による沖縄戦記』を入手していないことが分かる。

 初版の「まえがき」は述べる。

 <終戦4年目の49年5月、旧沖縄新報社編集局長、現タイムス理事豊平良顕「監修」、旧沖縄新報社記者、現タイムス記者の牧港篤三「執筆」、現タイムス記者伊佐良博「執筆」の3名に託し、1年を経て上梓の運びに至った>

 つまり、『ある神話の背景』の中で曽野さんが太田氏に取材し、太田氏は「わずか3人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を3カ月で調べ、3カ月で執筆したのである」とあるのは嘘(うそ)で、常識で考えれば、第2章の「集団自決」に3カ月かけたと解釈できるが、現地取材の時間があるわけだから、もう少しまともな記事が書けたはずだ。だが、それもしていない。

 座間味村の国民学校教頭でいつも軍服を着て、村民から恐れられていた山城安次郎沖縄テレビ社長と、南方から復員した宮平栄治氏から渡嘉敷の「集団自決」の情報を得た、と太田氏は語っているが、山城氏は座間味の「集団自決」命令に関与した張本人であり、戦後も自分の過去を完全に隠してきた男である。

 また実際、宮平氏は曽野さんの取材を受け、「太田氏から取材を受けたことはない」と否定している。

 そして「まえがき」の最後に「この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」と書かれている。

 しかし、この記述は『沖縄戦・鉄の暴風』から完全に消えているのである。このことを「ミステリー作家」の曽野さんはどう解釈するのだろうか。興味のあるところだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(41)

沖縄戦史捏造の原因 『鉄の暴風』をうのみに

 1970年9月、赤松嘉次氏と元部下の沖縄訪問から半年後、大阪のホテルで一つの会合が開かれた。第3艦隊の報告会であった。そこで曽野綾子さんは、初めて事件の主人公たち14、15人を見た。死ぬはずだった人々が集まっていた。谷本小次郎氏は「陣中日誌」を配った。この陣中日誌が彼女が入手した第3戦隊に関する文書1号となった。

 一人の隊員が「赤松隊長のことをなぜ間違って書き、なぜ人々はそれをそのまま信じるのか。自分は納得がいかない。真実を書いてください」と激しい口調で訴えた。

 赤松隊長の命令により集団自決が行われたと断定した資料は、50年8月15日発行の『鉄の暴風』(沖縄タイムス編集、朝日新聞社刊)である。

 そして別の資料が70年4月3日のタイムスに発表された星雅彦氏のエッセイだ。星氏は次のように語っている。

 <1、慶良間戦況報告書「渡嘉敷島における戦争の様相」渡嘉敷村、座間味村共編で起筆したが、年月日がなく、赤松が自決命令したとの記録もない。

 2、「鉄の暴風」米軍のヒューマニズムをうたい、古い硬質な文体でつらぬかれ、「自決命令が赤松からもたらされた」と漠然と記されている。

 3、「渡嘉敷島の戦闘概要」50年3月渡嘉敷村遺族会編。村長米田惟好、元防衛隊長屋比久孟祥がまとめたとなっている。

 不思議なことに、1、2、3はどれかを模写したような文章の酷似が随所にある。>

 曽野さんは三つの資料の発生順は①『鉄の暴風』②遺族会による「戦闘概要」③琉球大学図書館にある『戦争の様相』―だと結論している。三つの資料とも米軍上陸の日を3月27日ではなく3月26日と間違っている。

 それならば、全ての資料の基となった『鉄の暴風』はどのような経緯で出版されたのか。曽野さんは著者の太田良博氏にインタビューした。太田氏は沖縄戦当時、教授であった沖縄テレビの社長である山城安次郎氏と、南方から復員した宮平栄治氏から渡嘉敷村の「集団自決」の情報をもらったと証言している。しかし、宮平氏は否定している。山城氏については沖縄在住ブロガーの江崎孝氏の記事が詳しい。秦郁彦編『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』の中で、江崎氏は「自分の過去を全て消してしまった男」として発表している。

 渡嘉敷村の新城(後に富山に改名)真順氏はいつも逃げ回り、曽野さんとの面会も避けている。なぜなら戦時中、兵事主任という重職に就いていたが、戦後、長いこと援護法の適用方に従事していたからだ。曽野さんも援護法に少し触れているが、厚生省は支払った全額返還を求めることはない、と確認していることを指摘しておこう。しかし、あの頃、誰がそんなことを知っていただろうか。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(40)

自決命令の「赤松神話」、那覇市職労が捏造に加担

 曽野綾子さんは『ある神話の背景』で見事にミステリー作家ぶりを見せている。このような評価を下すのは曽野さん本人も読者の皆さんも意外に思うかもしれない。しかし、これが筆者の正直な感想だ。

 同じ頃、出版された岩波の『沖縄ノート』で大江健三郎氏が「慶良間の集団自決の責任者も、自己欺瞞と他者への瞞着を試み、人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨(おお)きい罪の巨魁の前で、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう」と、実に堅苦しい言葉で、「赤松嘉次」と「梅澤裕」を非難した。

 「集団自決」とは、「日本軍による住民虐殺」と全く同じものだから、「集団自決」は沖縄戦においては発生しなかったと暴論を吐く山口剛史琉球大准教授に『ある神話の背景』の内容について「講義」しよう。

 この書の初めに曽野さんはザレ歌を作った。「慶良間ケラケラ、阿嘉(あっか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」。これで読者を刺激し、実際、「沖縄をバカにしやがって」と怒った「知識人」がいた。そして赤松氏が極悪人であるとする本を次々と紹介する。中野好夫・新崎盛暉著『沖縄問題二十年』、山川泰邦著『沖縄県史8』、浦崎純著『悲劇の沖縄戦』など、選ぶのに困らない。

 そして1970年3月26日午後5時、那覇空港。赤松元大尉と旧軍人十数人が渡嘉敷島の慰霊祭に出席するためやって来た。「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」「お前は沖縄人を何人殺したんだ」との抗議団の怒号。那覇市職労の山田義時氏が代表して抗議文を読み上げる。「300人の住民を集団自決に追いやった責任はどうする」

 赤松元大尉はようやく口を開く。「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった」。部下が答える。「責任というが、もし本当のことを言えば大変なことになる。いろんな人に迷惑がかかるんだ。言えない」

 新聞は伝えなかったが、現場には安里喜順元巡査、詩人作家の星雅彦氏がいた。これまで誰も指摘していなかったが、山田氏は単なる那覇市職労の職員ではない。彼は『沖縄県史10巻』で「集団自決」を命じたと赤松氏と糾弾していた主犯だ。筆者は山田氏をよく知っている。彼は「1フィート運動」の乗っ取り事件にも加担したどうしようもない男だ。

 赤松元大尉は沖縄戦史における数少ない神話的悪人となった。曽野さんの目に触れる限り、彼は完璧に悪玉であった。

 悪魔の申し子赤松元大尉と仲間たちが沖縄を去った時、全てが終わったのではなく、全てが始まった。神話は神話として深くて暗い闇の奥にある限り、じっと動かない。神話が明るみに出ると、神話を目撃した人々は恐れをなしてたじろぐのだ。しかし、曽野綾子という人間は違った。彼女は悪においても善においても完璧なものはない、ということをその宗教を通して確信していた。赤松神話は、まさにその暗い穴から飛び出したのだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(39)

沖縄2紙「軍命関与」報道、 曽野綾子氏の予言が現実に

 2007年3月30日、文科省は教科書から「沖縄の集団自決の軍命の記述を削除すべし」との検定意見を出したところ、翌日から琉球新報と沖縄タイムスは激しく反発し、その後、連日猛烈なキャンペーンが張られ、全市町村議会が両紙の抗し難きキャンペーンを受け「集団自決に軍命あり」の決議を出すことになった。

 6月22日の琉球新報は、県議会も「検定撤回を求め意見書を全会一致で可決。集団自決に軍関与は事実」との大きな見出しで報道している。タイムス報道も全く同様だ。

 この連載の第28回で曽野綾子氏が「沖縄の二つの新聞が心を合わせれば、世論に大きな指導力を持つ」と予見していたことが現実のものになったのだ。沖縄の新聞社の記者から、「俺たちが次の知事を決めるのだ」という言葉を筆者は何度も耳にした。

 県議会の意見書は検定意見書について「沖縄戦における“集団自決”が日本軍の関与なしには起こり得なかった」と記されている。そこには、赤松嘉次氏と梅澤裕氏のことについて一切検討することもなく、ご両人の長年の耐え難き屈辱の人生に思いを馳(は)せる言葉もない。新報とタイムスの意のままに操られている“政治屋”と呼ばれるべき議員たちの無残な姿があるだけだ。

 「新沖縄県史―新沖縄戦」の「沖縄戦と教科書」という項で、山口剛史琉球大学准教授は、“集団自決・強制集団死”について、県議会の意見書を詳しく紹介し、この運動の盛り上がりで9月29日の宜野湾海浜公園に11万人、宮古・八重山に6000人も集結したと豪語している。この「主催者発表」の数字がトンデモない誤謬(ごびゅう)であることは後日、数学的に証明しよう。

 さて、「教科書検定意見撤回運動」の中で、仲里利信県議会議長(当時)が「日本兵が来て、子供が泣いていると、敵に殺されるから、毒入りおむすびを食え、と強要した」とあるが、それは沖縄戦の最終段階の南部戦線のことだろう。一を知って千を語るものであり、全く無意味だ。山口氏はこう論述する。

 <日本軍の命令・強制により住民は死に追いやられ、「集団自決」は沖縄戦においては発生しなかった。「集団自決」とは「日本軍による住民殺害」と同質同根のものであることが、座間味、渡嘉敷島の研究の深化により確認された。その中で曽野綾子の『ある神話の背景』についても自決命令があったという証拠も、なかったという証拠も発見できなかったというだけである>

 彼が『ある神話の背景』を読んでいないのは確かだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(38)

岩波が中止を要求、幻となった連載最終稿

 筆者が琉球新報記者4人組による信じ難い暴挙の件について会見しなかった理由はただ一つ、親友である嘉数(かかず)武編集長の苦しい立場を考慮したからだ。その時、筆者も嘉数氏も「大江・岩波」裁判が筆者の長期連載に影響を及ぼすことになるとは全く考えていなかった。

 2007年6月18日の1週間前、筆者は「パンドラの箱を開ける時」の内容を発表し、その第2話で慶良間諸島の「集団自決」について真相をありのままに告げることを予告していた。これに気が付いた岩波書店の「世界」編集長の岡本厚氏が週末に前泊博盛記者に連絡し、彼を東京に呼び出し、「上原の連載をストップしてくれ」と頼んでいたのだ。

 さて、筆者の「パンドラの箱」はどうなったかと言えば、4カ月の中断の末、嘉数編集長は前泊記者を連載担当から下ろし、筆者に「必ず集団自決の真相を発表する機会がくるから、しばらく我慢してくれ」と約束し、筆者も妥協し、「慶良間で何が起きたのか」を別のものに入れ替え、「パンドラの箱」を続けることになった。

 だが08年6月、高嶺朝一氏が社長に就任し、筆者の友人であった嘉数氏をバッサリ編集長から下ろしたのだ。嘉数氏の訃報が17年1月10日、琉球新報にベタ記事で出た。彼は「集団自決」の件で唯一、筆者を支えてくれた記者だった。彼が筆者に味方せず連載を「止めろ」と言えば、彼は社長まで昇り詰めたことは明らかだ。最高の親友を失ったまま筆者は「パンドラの箱」を続けた。

 新報の記者たちは「昨日の友」から「今日の敵」に変わっていたから、苦痛の執筆活動だった。08年8月初め、新たに連載担当になっていた名城知二朗記者から「上からの話で、連載を終わってくれないか」との話があった。筆者は「ああ、いいよ」と応じ、最後の物語「そして人生は続く」で、筆者の沖縄戦についての経験を語り、最後の181回で赤松嘉次氏から安里喜順氏への手紙2通で「集団自決」の真相を公開しようとした。

 ところが高嶺新社長を交え編集会議が開かれ、「私は上原をよく知っている。文句を言わせない。最終稿は載せるな」という高嶺氏の鶴の一声で、最終稿が発表されずに終わるという前代未聞の事態に陥った。

 高嶺氏と筆者は表向きは親しかったが、彼は社長に就任すると、やりたい放題の暴挙に出たのだ。全ての筆者の読者はそれを知ることができなかった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(37)

「社の方針」で連載中止、表現の自由奪った新報

 1996年6月に筆者が発表した「沖縄戦ショウダウン」の中で、沖縄タイムスの『鉄の暴風』を徹底的に批判したことがあった。その時、タイムスとライバル関係にあった琉球新報の記者たちは「よく書いたな」と喜んでくれたものだが、2006年には事情が一変していた。

 05年には新報の記者の中で唯一、筆者とウチナーグチ(沖縄の方言)で話す親友の嘉数武記者は編集長に昇進し、張り切っていた。彼は、筆者が「1フィート運動」や「沖縄戦メモリアル運動」、すなわち「平和の礎(いしじ)」で大田昌秀氏や石原昌家氏らエセ文化人、知識人らにヒドい目に遭っているのを熟知していたから、「これから夕刊に、君のために特別な枠を用意するから、沖縄戦について何年でも自由に書いてくれ」と(ウチナーグチで)話した。筆者は勇気百倍、ドンドン書いてやるぞ、と武者震いした。

 06年4月から年末まで「戦争を生き残った者の記録」を発表。07年5月から「パンドラの箱を開ける時」を発表し、その第2話で「慶良間で何が起きたのか」を発表することになっていた。それは当然、「沖縄戦ショウダウン」の長い注釈「渡嘉敷で何が起きたのか」を発展させ、慶良間の島々の戦闘と「集団自決」の真相について40~50回にわたる長編で、包み隠さず明らかにする予定だった。

 ところが6月15日、連載担当員として嘉数編集長が新たに任命した前泊(まえどまり)博盛氏(現沖縄国際大学教授)から呼び出しを受けた。琉球新報本社7階の空き部屋に通されると、そこには前泊、玻名城(はなしろ)泰山(現社長)、枝川健治、上間了の4氏が緊張した表情で待っていた。4人とも筆者はほとんど話したことはなかった。

 初めに筆者の横に座った前泊氏が「『慶良間で何が起きたのか』は掲載しないことにした」と告げた。大喧嘩(げんか)が始まった。「一体、どういうことなのか、ちゃんと説明しろ」と筆者が言うと、前泊氏が「社の方針だ」と説明した。筆者はカッとなって「お前らは文化部ではない。何の権利があるんだ。社長も知っているのか」と言うと、「社長は知らなくとも社の方針は社の方針だ」との返事。

 筆者は「ぼくには憲法で保障された表現の自由がある」と、新聞社がよく使う「表現の自由」を出すと、さすがに4人組はウロたえた。

 筆者が「明日にも記者会見を開くぞ」と怒鳴ると、正面の玻名城氏が青くなって「記者会見だけはやめてくれ」とオドオドしながら言った。玻名城氏はその後、編集長に駆け上がり、今では社長だ。新報の現体質がよく分かる裏話だ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(36)

大江・岩波裁判の誤算、訴えるべきは『鉄の暴風』

 集団自決訴訟「大江・岩波」裁判は『鉄の暴風』と沖縄タイムスも被告として訴えるべきだったが、原告側の不手際で「大江・岩波」の勝利に終わった。

 裁判の被告・岩波書店の2008年臨時増刊「沖縄戦と『集団自決』」も、「集団自決」の最重要文献で、宮城晴美氏が沖縄タイムスで発表したコラム「母の遺言―きり取られた自決命令」には一言も触れていない。被告に不利な証拠文献は避けるべきなのは自明のことだからだ。

 宮城氏は母の遺言を発表することによって村全体を敵に回すことになり、息の根を止められてしまった。しかし、05年8月、大阪地裁に梅澤裕氏、赤松秀一氏(故赤松嘉次氏の弟)が名誉棄損で岩波書店と大江健三郎氏を提訴すると、被告・岩波は宮城氏に連絡し、彼女は岩波側の重要証人として法廷に立つことになった。そして08年、彼女は『新版・母の遺したもの』を出版し、そこでは「梅澤氏はやはり、集団自決命令を出していた」と全く逆の結論を出し、彼女自身は息を吹き返したのだ。

 岩波の弁護団が仕組んだのが、座間味村助役で兵事主任であった故宮里盛秀氏の妹・宮平春子氏の「軍からの命令で、敵が上陸してきたから玉砕するように兄から言われた。国の命令だから潔く一緒に自決しましょう。敵の手に捕らわれるよりは自決した方がいい」と本人から直接聞かされたと陳述書を出させたのだ。しかしながら、兵事主任の役割については触れていない。兵事主任とは軍と村民の重要な連絡係であると同時に、数十人の村の防衛隊と同じように重装備をして、軍人と全く変わらぬ立場にあったことだ。防衛隊とは正式には防衛召集兵と呼ばれ、退役軍人や村民の若者たちからなり、在庫の武器弾薬を手に入れることができた。このことを裁判では誰も証言しなかったのだ。

 「集団自決」というそれまで誰も使わなかった言葉を、『鉄の暴風』で伊佐(後に大田)良博氏が「玉砕」の代わりに創作し、そこで初めて、「赤松嘉次戦隊長と梅澤裕戦隊長が『集団自決』を命令した」と発表した。原告側の弁護団は、『鉄の暴風』と沖縄タイムスを被告として訴えれば楽勝したはずだったが、そうはしなかった。なぜなら、岩波という大出版社と大江健三郎というノーベル文学賞受賞者の『沖縄ノート』で十分だと踏んだからだ。

 この裁判が被告側の「勝利」に終わった理由は『沖縄ノート』には赤松氏や梅澤氏の名前はなく、ほんの数行『鉄の暴風』の記述を引用したと思われる部分が示されているだけだからだ。

 しかしながら、歴史はまた皮肉にも反転する。

 筆者は06年から琉球新報編集長の嘉数武氏から依頼を受けて、「沖縄戦(の原稿)を数年間、自由に発表してくれ」と言われ、毎年タイトルを変えて執筆することにした。そして、琉球新報との「表現の自由」をめぐるすさまじい戦争が始まったのだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(35)

県史編集委員の狙い、意図的に「集団自決」演出

 新沖縄県史の最終章において、沖縄戦編集部長の吉浜忍沖縄国際大学元教授は、1944年3月22日から45年9月7日まで連日の記録を「沖縄戦詳細年表」として発表している。筆者はアメリカ側の記録を基に「沖縄戦G2戦時記録」を出版していたからこの年表に関心を覚えた。どのような意図や背景でまとめられたか一目瞭然だからだ。「集団自決」については次のように記録している。

 <3月26日米77歩兵師団阿嘉、座間味、慶留間島に上陸。座間味、慶留間で「集団自決」「強制集団死」起こる

 3月27日米77歩兵師団、渡嘉敷に上陸

 3月28日渡嘉敷で「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月2日読谷村のチビチリガマ「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月3日読谷村のクーニー山壕で「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月4日具志川城で「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月22日伊江島アハシャガマで「集団自決」「強制集団死」起こる>

 あきれるばかりだ。新沖縄県史には「集団自決」について数多くの記述がある。それは全て「集団自決」「強制集団死」と記述されている。例えば、宮城晴美氏は新沖縄県史編集委員会の副会長であり、「慶良間諸島の沖縄戦」の執筆を担当し、「日本軍の特攻基地にされ軍民の共生共死を強いられた慶良間諸島住民の行き着いたところが、日本軍駐留ゆえの『集団自決』『強制集団死』であり、虐殺の犠牲であった」と括(くく)っている。

 しかしながら、連載第9回で指摘したように、1990年6月に宮城氏が沖縄タイムスで発表した「母の遺言―きり取られた『自決命令』」の中で、母初枝さんの証言として、「50年代に沖縄の援護法の適用を受け、村の長老の圧力を受け、初枝さんは梅澤裕戦隊長が決して玉砕を命じていないことを知りながら、玉砕命令を出した、と国の調査団に嘘の陳述をした」と記している。

 しかし、このメガトン級の告白文は人々の記憶から完全に消えてしまい、この告白文を基にした『母の遺したもの』を2000年、高文研社から出版すると、座間味村長らは「晴美は2度と村に入れるな」と怒り狂った。05年、梅澤さんらが「梅澤さんと赤松さんは集団自決命令を出していない」として岩波書店に対して民事訴訟を起こすと、宮城氏は岩波のバックアップを受けて被告側の証人として法廷に立つことになったのだ。

 そして08年、タイトルは「新」がついただけの『母の遺したもの』を同じ出版社から出したのだが、中身は全くひっくり返って、「梅澤裕戦隊長はやはり自決命令を出した」という内容だった。実に噴飯ものの話だが、彼女は「集団自決」「強制集団死」を恥も外聞もなく叫ぶ「文化人」たちに囲まれて安穏と生きている。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(34)

沖縄県平和祈念資料館の説明では「強制された集団死」と書かれている

沖縄県平和祈念資料館の説明では「強制された集団死」と書かれている

史実確認怠った林教授、日本軍と防衛隊員混同

 筆者はバックナー中将の遺族と石原正一郎大尉本人に会い、さまざまな文献に接し、ようやく事の真相に辿(たど)り着くことができた。これが、筆者の沖縄戦に対する基本姿勢だ。

 決して教科書や書籍を信じてはならない。実際、全ての学校教科書は沖縄戦戦没者数でとんでもないことを犯している。新沖縄県史が「平和の礎(いしじ)」の戦没者数で決定的な詐欺行為を行ったことは既に指摘した。

 さらに、軍人の命令があったから住民玉砕(「集団自決」)が始まったとする教員、文化人、政治家の何と多いことか。今、琉球新報と沖縄タイムスは玉砕を述べる時は必ず「集団自決」「強制集団死」と並記している。この原因をつくったのが、安仁屋政昭氏と石原昌家氏であることは既に伝えたが、これをガチガチに固めたのが関東学院大学教授の林博史氏だ。

 林氏は「強制された『集団自決』『強制集団死』」の項目の中で、集団自決について述べている。

 <渡嘉敷村の兵事主任であった新城(あらぐすく)真順さんの証言によると、3月20日兵事主任を通して非常呼集がかけられて、役場の職員と17歳未満の青年のあわせて20数人が集められた。軍曹は部下に手榴弾を持ってこさせ、1人2個ずつ配り、1発は敵に投げ、1発はいざという時に「自決」せよと指示した。>

 これは『渡嘉敷村史』(1990年版)からの引用となっているが、新城氏は十・十空襲の前後のことに触れているだけで、「集団自決」について自分の役割には一切触れていない。

 林氏の記述はこう続く。

 <手榴弾は防衛隊員が配っただけでなく、軍によって組織的に配布されていたと言える。子どもだった吉川勇助さんによると、(中略)村長は音頭をとり「天皇陛下万歳」を唱和し、それぞれの家族が集まって手榴弾を爆発させた。(中略)残った人たちは日本軍陣地に向かうが追い越され、その近くでまた「集団自決」「強制集団死」をおこなった。>

 ここでも最重要証人であるはずの新城真順氏の説明はなかった。

 90年版の渡嘉敷村史は、拙著『沖縄戦トップシークレット』にあるニューヨーク・タイムズの「神もおののく集団自決」をかなり詳しく引用しているが、その後判明した事実、「つまり、日本兵数人が保護された住民の中に入ってくると怒り狂って日本兵らにつかみかかった」と紹介している。実は、「日本兵ら」とは村の防衛隊であり、アメリカ兵から見れば、重装備した防衛隊と日本兵の区別がつかなかったのだ。林氏の取材はこの程度のお粗末なものであることに注意せよ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(33)

沖縄県糸満市真栄里にあるバックナー中将慰霊碑の案内板

沖縄県糸満市真栄里にあるバックナー中将慰霊碑の案内板

昨日の敵は今日の友、自責の念晴れた石原隊長

 バックナー中将らが立っていた丘陵最東端の真南1キロの地点には日本軍の榴弾(りゅうだん)砲2門が草木で擬装され、じっと隊長の発射命令を待っていた。野戦重砲兵第1連隊長の石原正一郎大尉は砲弾が8発しか残されておらず、その砲弾の標的がくるのを今か今かと待っていた。

 「真北の断崖上の大物を狙え。全弾発射!」と命令を下した。榴弾砲2門が次々と発射された。初弾が目標地点に命中し、黒い煙が上がった。全弾を射ち尽くす前に敵の反撃が始まった。砲弾がビュンビュン飛んできて、白煙を上げた。

 一発の敵砲弾が榴弾砲の端に命中し、その榴弾砲は使えなくなった。石原隊長は砲弾の破片で腰を負傷し、動けなくなり、すぐに米兵に逮捕され、野戦病院で手術を受けた。

 あの運命の日に彼が倒したのは、敵の司令官バックナー中将だった、と知ったのは戦後数年して米軍の沖縄戦史の記述を読んだ時だった。石原氏は胸が痛んだ。バックナーさんの家族に本当に申し訳ないことをした、と悔やんだ。

 彼はその後、沖縄を訪問し、バックナー中将の記念碑に参拝し、多くの遺骨を収集した。石原氏は毎年の沖縄訪問の中で米軍の将校と親しくなり、米軍基地の中に日本軍の榴弾砲が置かれていることを知り、基地に案内された。何と、その榴弾砲はあの日、彼の砲兵隊がバックナー中将を倒した後、砲撃で一部破壊されたものだった。彼はバックナー中将のことには触れずに、その榴弾砲は自分の部隊に所属した物なので、返還してもらえないか、と依頼すると、米軍将校は快く応じてくれた。

 あの歴史の悲劇を知る榴弾砲は今、靖国神社の正門前に鎮座している。

 筆者が東京で、石原氏に「バックナー中将の子息のウィリアムさんに手紙を書いたらどうでしょうか」と勧めると、石原氏は「ご家族は恨んでいるでしょう。許してくれるはずはありませんよ」と言った。しかし筆者が「そんなことはありません。ご家族は喜んでくれますよ」と激励すると、石原氏は謝罪の手紙を書いてくれた。筆者はそれを英訳し、ウィリアムさんに送った。間もなく返事が届いた。

 <私は全く恨むことはありません。むしろ、父の死の真相が明らかになり、喜んでおります。父は私にどんな仕事についてもよいが、自分が紳士であることを忘れるなと遺言を残しています。父は戦争で死ぬことを恐れていませんでした。紳士として生き、兵士として死んだのです。決してあなたを恨むことはありません。昨日の敵は今日の友です。友情を込めて>

 こうして、敵対するはずだった2人の紳士の間に不思議な友情が生まれたのだった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(32)

米陸軍バックナー中将の最期についての説明板=糸満市真栄里

米陸軍バックナー中将の最期についての説明板=糸満市真栄里

バックナー中将の戦死、最後まで前線で兵士鼓舞

 筆者はこの連載の冒頭で「最も醜いはずの戦争の中に、最も美しい物語が潜んでいる」と書いた。今回はその一つを紹介しよう。1945年6月18日、南部前線視察の日だ。バックナー中将の部下らは前線視察は危険だからと忠告したが、将軍はいつものように「部下の兵士らが前線で戦っているのに将軍の私が逃げるわけにはいくまい」と忠告を一蹴した。将軍は前線視察がどれだけ兵士の士気を鼓舞するか、よく知っていたから、しばしば前線に出ていた。

 昼ごろ、将軍の一行が真栄里の丘陵に近づき、将軍が車を降り、山を登り始めると、第8海兵連隊の兵士から歓声が上がった。「南部万歳、バックナー将軍万歳」。彼らは知っていたのだ。バックナー・ジュニア将軍がケンタッキー州出身で、父のバックナー将軍が名誉の敗戦でケンタッキー出身の兵士の命を救い、後に州知事に選出されたことを。

 バックナー・ジュニアは笑顔を絶やさず兵士一人ひとりに話し掛け、午後1時ごろ、真栄里と真壁の中間の丘陵の最先端に出た。高さ数メートルの断崖から四方全てが見渡せた。ということは敵の日本軍からも丸見えだった。断崖の東端にはバックナー将軍、ウォラス大佐ら4人が立っているだけだった。

 1時10分ごろ、突然、砲弾が将軍の目の前の岩に当たり、破片がその胸を直撃した。そばにいた3人の第8連隊の指揮官らも一瞬のうちに吹き飛ばされた。ウォラス大佐はフラフラ立ち上がると、将軍を捜した。指揮官らは、皆大したけがはなかった。だが、バックナー将軍は仰向けに倒れ、血だらけだった。目は真っ赤に充血し、口からも出血し、胸からドクドク血が流れている。だが、将軍は意識があった。

 ウォラス大佐が近づくと、絞り出すような声で言った。「ミンナ、ブジカ」。ウォラス大佐は知っていた。将軍は助からない。だが、将軍は「オコシテクレ」と右手を差し出している。すぐに海軍の医師がやって来たが、手が付けられない。将軍は右手を上げたまま、立ち上がろうともがく。その時、サーキシアン2等兵が将軍の手を握り、涙ながらに祈るように言った。「将軍、故郷に帰るんですよ」と同じ言葉を何度も何度も繰り返した。将軍は海兵隊の2等兵の手を握ったまま最期を迎えた。

 その場面をじっと見ていたヘイリー海兵隊中尉は後に述懐した。「私はバックナー将軍が最後の最後まで自分が司令官であることを認識し、立ち上がろうとする姿に感動した。私はこれまで多くの部下の死に直面しても涙を流さなかった。だが、私はこの時、大きな感動で声を出して泣いた。不思議な満足感があった」

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(31)

糸満市真栄里にあるバックナー中将の慰霊碑

糸満市真栄里にあるバックナー中将の慰霊碑

ずさんな『新沖縄戦』、両軍トップ戦死の日付に誤り

 「集団自決」という言葉は伊佐(大田)良博氏が『鉄の暴風』の中で初めて使用したもので、それまで「玉砕」と当たり前のように使われていた。実際、今でも渡嘉敷島では「第1玉砕場」とか「第2玉砕場」という呼び名が使われている。ところが記念碑には「集団自決の碑」と刻まれ、「玉砕の碑」の表記は使いづらくなっている。筆者も今さら「玉砕」という言葉を使えず、本当に困っている。だから、カッコ付きの「集団自決」で前に進もう。

 『新沖縄戦』はバックナー中将の戦死について、砲撃で死んだのか、日本兵の狙撃兵が撃ったのか、両論があるとしている。これについては筆者は徹底的に調査して、石原正一郎大尉の部隊の最後の砲弾が岩に当たり、破片が胸を突き、その10分後に死亡した感動的な物語を既に発表している。戦死の日時は6月18日午後1時25分だ。だが、吉浜忍編集長は「6月19日戦死」として記している。

 さらに、牛島満司令官と長勇参謀長が糸満市摩文仁の司令部壕で自決したのが6月23日となっている。これも筆者は徹底的に調査して、6月22日午前3時半ごろと証明した。6月22日を23日に変更したのは八原博道高級参謀だ。拙著『沖縄戦トップシークレット』を図書館で見るとよい。

 アメリカ側の沖縄戦は6月21日午後2時に戦闘終了が出され、翌22日に嘉手納で勝利式典が催された。その理由は、実に人間的なものだ。後任のスティルウェル大将は蒋介石の副官として中国軍を指揮していたが、蒋介石に嫌われ、ルーズベルト大統領から解任された。彼はマッカーサー元帥にバックナーを除し、自分を第10軍司令官に任命するよう企(たくら)んでいた。それが今、実現し、彼はサイパンから沖縄に飛んできた。しかし、その日は6月23日で、勝利式典に間に合わなかった。つまり、バックナー中将の部下としてはムザムザと後任のスティルウェルに勝利の栄誉を奪われるわけにはいかなかったのだ。

 ところが、全てのアメリカ兵や国民が驚いたことに、一億総玉砕を唱えていた大日本帝国は2発の原爆の後、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのだ。第10軍を率いて日本上陸を期していたスティルウェル将軍は面白くない。マッカーサーが9月2日、ミズーリ号の艦上で日本の降伏調印式典を催すと、9月7日、嘉手納にも奄美や宮古、八重山の日本司令官を呼び寄せ、琉球列島の“降伏調印式”を催した。だが、それは様式が違っていた。それは“領土譲渡”文書だったのだ。このことは誰も知らない。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(30)

座間味島の山頂から阿嘉島を望む

座間味島の山頂から阿嘉島を望む

嘘を事実認定する新県史 大田元知事、投降日を捏造

 昨年3月、沖縄県は県史『新沖縄戦』を発行した。執筆者は吉浜忍沖縄国際大学教授(今年引退)の指揮下に37人いるが、本の内容は実に杜撰(ずさん)なものだ。

 吉浜氏は「沖縄戦記録・研究の歩み」の中で、軍人・古川成美氏の『沖縄の最後』(1947年)が沖縄戦記の嚆矢(こうし)だとしているが、古川成美とは実は第32軍高級参謀・八原博道氏の仮名であることを知らないのだ。そして、「『鉄の暴風』が戦場での住民の行動を描いた沖縄戦記の嚆矢である」とだけ記して、「集団自決」の問題が『鉄の暴風』から始まったことには全く触れていない。ただ、関東学院大学の林博史教授が「強制された『集団自決』『強制集団死』」の項で、「鉄の暴風の中ですでに渡嘉敷島と座間味島で戦隊長が自決を命令したことが述べられており、援護法の適用を受けるために自決命令を捏造(ねつぞう)したという説はまったく成りたたない」と記している。これについてはこれまでかなり詳しく述べてきたが、これから徹底的に論破することにしよう。

 吉浜氏は遠藤幸三著『青年医学徒の沖縄戦回想記』が2000年に刊行されたことを述べているが、遠藤氏は琉大教授時代の大田昌秀元沖縄県知事に面会している。その著書で、彼が建設した東風平(こちんだ)村の小城の病院壕を捜し当て、そこに十数人の日本軍将校と兵士らの中に大田昌秀学徒兵と会い、9月16日に一緒に米軍に投降した、と記している。そして戦後、琉大教授の大田氏に2度会っているのだ。拙著『G2 アメリカ軍戦時記録』にも、9月16日に東風平で大田氏らが投降する記録が載っている。しかも、彼と外間守善氏らが出版した『沖縄学徒隊』(1953年)にも9月16日に投降したと記されている。

 しかしながら、大田氏はその後9月23日まで摩文仁(まぶに)(糸満市)の崖に居て、「九死に一生を得た」と悲劇の主人公に扮(ふん)している始末だ。今では「大田昌秀氏は10月23日、摩文仁で投降した」というとんでもない嘘(うそ)が真実となっている。

 よく、兵隊がいない所で「集団自決」はないという言説を見聞きする。それは明らかに嘘だ。阿嘉島を見よう。阿嘉島の野田毅彦戦隊長は拙著『沖縄戦トップシークレット』の第1話「戦いの島、神の島、祈りの島」の主人公の一人なのだ。彼は軍律に厳しく、住民からも兵士からも恐れられ、嫌われ者だった。筆者は彼に面会して話を聞いた。

 阿嘉島では「集団自決」はなかった。しかしながら、8月下旬、投降すると、朝鮮人軍夫から毎晩のように制裁を受けたと話した。彼は第32軍本部から慰安婦7人が送られてくると、「けしからん」と直ちに送り返したのだ。沖縄では唯一無二の出来事だった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(29)

歴史歪めた歴代知事の責任、「集団自決」に無知な翁長氏

 第1次世界大戦が終わり、戦後処理が始まった時、日米軍縮会議が開かれ、「琉球」をどうするか議題に上がった。ドイツ領であった南洋諸島が日本の「管轄下」に置かれたことはよく知られているが、「琉球」のことは誰も知らない。

 1921年のニューヨーク・タイムズを探してみると、あった。条約締結の記事の中に「琉球諸島の奄美の海軍基地建設を中止し、沖縄島にも基地建設をしない」という条項が入っていた。しかも、条項の中で琉球はLoo-Choo(ルーチュー)と綴(つづ)られているではないか。これはあのバジル・ホールの航海記の『大琉球 Great Loo-Choo』をアメリカ側の交渉者が読んでいたことを如実に示している。

 筆者はそれから「大琉球」に関する文献を読みあさり、82年に「大琉球発見」という連載を琉球新報で発表した。それが、筆者の「作家」としての原点だった。ともあれ、20年代から30年代にかけて、奄美と沖縄に基地がなかった理由が「日米軍縮条約」にあることが明らかになったのである。

 本題に戻ろう。ここまで折に触れて、昨年発行された『沖縄県史(各論編6)沖縄戦』(以下、県史新沖縄戦)を批判してきた。より詳しく検証しよう。

 71年から74年にかけて県史第9巻沖縄戦記録(1)と(2)が出版された。記録(1)では先達の星雅彦氏らが膨大な録音テープを起こし、大事業を達成した。しかしながら、記録(2)は頑なに「集団自決」の軍命を信じた石原昌家、安仁屋政昭の両氏や某共産党員らによって「真実」から遠いものになってしまった。

 筆者はこれまで、質、量とも最大の数の戦記を沖縄の新聞で発表してきたが、県史新沖縄戦には筆者の研究成果は全く見られない。筆者はここでも「抹殺」されている。その理由は、この物語を注意深く読んでいる読者は既にご存じであろう。これから、この県史の嘘(うそ)や偽善、そして“犯罪”を暴くことにしよう。

 まず、この新県史の冒頭で翁長雄志知事(当時)が発刊の言葉を述べている。どこの県でも同じだろうが、「平和の創造への一助となることを願っています」という言葉はむなしく響く。彼は沖縄戦、特に「集団自決」については全く無知なのだ。大田昌秀氏や翁長氏が死去すると「神様」扱いされ、2人を非難することはタブーになっている。

 筆者は「沖縄戦」を通して2人が犯した犯罪をこれから徹底的に暴いていこうと思う。死者を尊ぶのは当たり前のことだが、知事や政治家の責任は生死にかかわらず、追及されなければならないのだ。それが真実を発掘し、真実を追求する筆者の仕事だ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(28)

沖縄県平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」

沖縄県平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」

沖縄は全体主義的閉鎖社会、曽野綾子氏の予言的指摘

 連載第1回で筆者は、1950年8月15日、沖縄タイムス編『鉄の暴風―現地人による沖縄戦記』によって赤松嘉次大尉と梅澤裕少佐は「集団自決」を命じた「極悪人」であることが暴露され、そのイメージが定着した、と書いた。『鉄の暴風』の第2章「悲劇の離島・集団自決」の著者・伊佐(後に太田と改名)良博氏がその元凶だったが、その後、誰もそれを咎(とが)める者はなかった。しかし、曽野綾子氏が73年、『ある神話の背景』で赤松氏や第3戦隊の隊員らに取材し、太田良博氏の“極悪人赤松嘉次”の神話が音を立てて崩れていったのだ。

 85年4月から5月の有名な「曽野―太田論争」の中で、太田氏は「土俵を間違えた人―曽野綾子氏への反論」(5月1日)でこう述べている。

 <いま、沖縄タイムスに連載されている「沖縄戦日誌」の去る1月20日の記事によると、あの住民玉砕の現場を目撃した米兵の証言がのっている。現場には日本兵が何人かいたようで、米兵はその日本兵から射撃をうけている。どうも、あの玉砕は軍が強要したにおいがある。>

 鼻がきく太田氏は「軍が強要したにおいがする」と書いているが、実はこの記事は3月29日付のニューヨーク・タイムズの記事を4月2日に発表したもので、後で渡嘉敷島で確認すると、アメリカ軍に助けられた住民の中に“日本兵”が割り込んできて、食事を取ろうとしたが、住民が話が違うとつかみかかろうとしたのだが、“日本兵”とは実は、島民の中の防衛隊員だった、というのが事の真相だ。防衛隊員は正規兵と同じく重装備しているからアメリカ兵から見たら“日本兵”と区別がつかなかったのだ。

 曽野氏は「太田氏へのお答え―沖縄戦から未来へ向かって」の最終回でこうつづる。

 <私はかねがね、沖縄という土地が日本のさまざまな思想から隔絶され、特に沖縄にとって口あたりの苦いものは意図的に排除されれる傾向にあるという印象を持っていた。その結果、沖縄は本土に比べれば、一種の全体主義的に統一された思想だけが提示される閉鎖社会だなと思うことが度々あった。これは危険な状況であった。沖縄の2つの新聞が心を合わせれば、世論に大きな指導力を持つ。>

 まさにその通りだ。曽野氏は30年前に沖縄の現状をズバリ予見していたことになる。今、沖縄タイムスと琉球新報という二つの裸の王様が道をゆく。「あっ、王様は裸だ」と叫ぶ少年(筆者のこと)の声は届かない。沖縄の新聞と筆者の熾烈(しれつ)な“戦争”については近いうちに触れることになろう。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(27)

渡嘉敷島の「集団自決」現場にある説明板には日本軍の関与は記されていない

渡嘉敷島の「集団自決」現場にある説明板には日本軍の関与は記されていない

渡嘉敷島“玉砕”の真実、3人組で20人超を殺害

 金城重明牧師は「集団自決」の日から50年後の1995年、一冊の本を高文研から出版した。『集団自決を心に刻んで―沖縄キリスト者の絶望からの精神史』というタイトルだ。彼は70年4月15日、琉球新報紙上に「渡嘉敷島の集団自決と戦争責任の意味するもの」と題する一編を発表した。あの集団自決から25年後、長い沈黙を破って表に出てきたのだ。そして50年後には東久邇(ひがしくに)稔彦(なるひこ)内閣の「一億総懺悔(ざんげ)」を非難している始末だ。

 前回紹介したように、金城牧師は「一人の少年が近づき、どうせ死ぬのだから米軍に斬り込んで最期を遂げよう、と誘った」と語った。真相はどうだったのか。一人の少年とは14歳の山城盛治氏だった。彼は、「渡嘉敷村史」(90年版)で極めて正直に、ありのまま、思い出すまま、語っている。

 <阿波連の部落がやられたのは、敵が上陸する前の、3月23日ですが、その時、全部やられて、山暮しがはじまったのです。そこに居た時、明日あたり、玉砕だという話が伝わってきました。(中略)

 翌日の朝9時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られた。(中略)男の人のいる世帯では、もう自分の家族は、自分で仕末しよう、ということになった。

 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と言って、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。(中略)

 子供は、背中から刺し殺した。子供は、肉が薄いもので、スッと突き通るのです。そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイ(心臓は真下にある)を自分であげさせて、刺したのです。

 私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生(金城牧師のこと)をしています。もう一人は現(阿波連)区長、字の世話係り(牧師の兄、金城重英氏のこと)です。>

 金城重明、重英、山城盛治の3人組が殺した女、子供、老人らは20人を超えるだろうとの証言を筆者は渡嘉敷村の現地調査で聞いた。これ以上、金城重明牧師の偽りの証言を並べる必要はないだろう。赤松嘉次氏と梅澤裕氏が“玉砕”を命令しなかったことは別の資料と証言でもはっきりしている。山城盛治氏のように“玉砕”を語る住民がほとんどだ。金城牧師のように神に仕える者が己自身に仕えてはならないのだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(26)

琉球新報に掲載された手記「渡嘉敷島の集団自決と戦争責任の意味するもの」

琉球新報に掲載された手記「渡嘉敷島の集団自決と戦争責任の意味するもの」

証言は金城牧師の後知恵、全国民に責任なすりつけ

 金城重明牧師の「家族殺し」の初告白は続く。

 <父もその場で死んだ。愛情と殺意が入れ替わり、人間否定に変質して行った(原文のママ)。敵に捕らえられて惨殺されるよりも、自らの手によって自らの命を断つことが願わしいと思ったからである。(中略)私達兄弟が、いよいよ自らの命を断とうとした瞬間、一人の少年が近づいて来て誘うように言った。「どうせ死ぬのだから、米軍にきり込んで最期を遂げようではないか」と。その時私共三人は、他に小学生二人を伴い、自分達が最後の生き残りだと思いつつ、より恐ろしい死でしかないきり込みへと自決場をあとに残した。しかし、最初に出会ったのは、皮肉にも日本軍であった。>

 これが金城牧師が初めて琉球新報上で発表した告白の冒頭部分だ。「父も(自決現場で)死んだ」と言いながら、後の証言では「父は目が悪くて、現場に向かう途中ではぐれて行方不明になった」と述べ、「軍国主義的異常信仰」が後に「生きて捕虜の辱めを受けず」という戦陣訓に変わり、「最初に出会ったのが、皮肉にも日本軍であった」のが、後に、「住民は、村長の近くに集められ、軍からの北山への集結が命ぜられた村長は軍から自決命令が出たからと天皇陛下万歳を唱えた。(中略)村長が独断で自決命令を出すことはありえない。軍から自決命令が出たからだ」という証言に変節している。

 金城牧師の証言は全てが後知恵と言ってよい。曽野綾子氏が『ある神話の背景』で金城牧師の「胡散(うさん)臭さ」を直感して、彼との対話を録音した、と記しているが、全く図星だった。

 金城牧師の手記「渡嘉敷島の集団自決と戦争責任の意味するもの」に戻ろう。金城牧師は唐突に戦争責任を持ち出すのだ。

 <これまでのマスコミでは赤松氏が自決命令を下したかどうかが焦点になっていた。即ち命令の事実確認が行われてきた。(中略)戦争責任が赤松氏の個人的追及と言う形でなされるならば、戦争責任の深い意味が忘れられたことになる。軍部の責任者として赤松氏は問われる。同時にあらゆる軍人、そして日本国民一人びとりが問われなければならない。戦争に巻き込まれた者は一人残らず加害者であり被害者なのである。>

 戦争は全国民の責任だと金城牧師は宣言している。つまり、一億総懺悔(ざんげ)せよ、と主張している。自分の責任を回避しているのだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(25)

沖縄戦の住⺠聞き取り調査をした星雅彦⽒

沖縄戦の住⺠聞き取り調査をした星雅彦⽒

親族「殺した」⾦城牧師

 沈黙破った隠れた主⼈公

 前回、沖縄の新聞やテレビで乱⽤されている「集団⾃決」「強制集団死」という並列表記の起源が伊佐良博⽒の『鉄の暴⾵』で使われた造語にあることを記し、安仁屋政昭、⽯原昌家、林博史の3⽒の責任を指摘した。

 ここからは、渡嘉敷村と座間味村でいったい何が起きたのか検証する。

 <1970年3⽉26⽇那覇空港。「何をしにノコノコ出てきたんだ︕今ごろになって︕」「お前は300⼈以上の沖縄県⺠を殺したんだぞ︕⼟下座してあやまれ」怒号のアラシが⾚松嘉次を襲った。>

 ⾚松⽒は翌年の⽉刊誌『潮』11⽉号で「私は⾃決を命令していない」と題する⼿記を発表した。その衝撃的な内容は後で紹介するが、戦時中の部下15⼈と共に渡嘉敷島を招待訪問することになっていた⾚松⽒にとって異様な出迎えとなり、その後の⼈⽣にも⼤転換をもたらすことになった。

 ⼀⽅、沖縄出⾝の作家で詩⼈の星雅彦⽒も気狂いじみた⼤混乱の現場を全て⽬撃していた。星⽒は『沖縄県史第9巻(沖縄戦①)』を名嘉正⼋郎⽒、宮城聡⽒らと共に、全島ほとんどの地域の戦地で住⺠の話をテープに録⾳し、それを起こして膨⼤な記録を残す、という⼈間離れした仕事をしていた。そして彼は、前記『潮』で「集団⾃決を追って」と題する⽴派な記録⽂学を発表していた。

 そして、もう⼀⼈、「集団⾃決」の隠れた主⼈公が⻑い沈黙を破って琉球新報の学芸欄に姿を⾒せたのだ。

 その⼈物の名は⾦城重明。⽇本キリスト教団⾸⾥教会牧師だ。1970年4⽉15⽇、⾦城牧師は「渡嘉敷島の集団⾃決と戦争責任の意味するもの」と題する⼀編をおそらく初めて投稿することになった。筆者の知る限り、⾦城牧師が「集団⾃決」について他に語ったことはない。それを紹介しよう。

 <戦争の痛ましい傷あとが忘れ去られようとしている時、沖縄戦の悲劇の焦点である渡嘉敷島の集団⾃決の悪夢が、⾚松元⼤尉の来島によって再び記憶によみがえってきた。島⺠329⼈の⾃決は、⽶軍の沖縄本島上陸に先⽴つこと4⽇、昭和20年3⽉28⽇、最も悲惨な⽅法で愛し合う⾁親の者同⼠が死の道を選んだ。ひめゆりの塔にこめられている悲話もこの悲惨事には及ばない。私は兄と2⼈で⺟や弟妹を⼤きな悲嘆の声を出しなが ら、⾔葉には表現できない⽅法で殺した。>

 ⾦城⽒はここで初めて親族を「殺した」ことを明らかにしたのだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(24)

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

意味のない並列表記 、「集団自決」は「玉砕」

 今、目の前に分厚い本がある。昨年3月発行の『沖縄県史(新版)沖縄戦』だ。翁長雄志知事(当時)は発刊の言葉で「本書が平和の創造への一助となることを期待します」と高らかに宣言している。しかしながら、書の内容は悲惨なものだ。何が悲惨か検証しよう。あり余る悲惨さの中で「集団自決」に焦点を当てて話を進めよう。

 この物語の冒頭で筆者は1950年沖縄タイムス編の『鉄の暴風―現地人による沖縄戦記』で著者の一人、伊佐(後に太田に改名)良博氏が初めて「集団自決」という言葉を使った、と語っていることを伝えた。彼はその後、大問題になる「集団自決の真相」が、曽野綾子氏の『ある神話の背景』によってコテンパンに嘘(うそ)を暴露されることになるが、真剣に曽野氏の本を検証する読者は沖縄では生まれなかった。

 例外は詩人で作家の星雅彦さんだけだ。彼は月刊誌『潮』(71年11月号)に「集団自決を追って」と題するドキュメンタリーを発表した。それは事実調査を基に「赤松嘉次さんは自決命令を出していない」とする内容で、赤松さんも同号で「私は自決を命令していない」と、これも衝撃的な内容を発表している。

 ところが今、沖縄の新聞やテレビで「集団自決」「強制集団死」という奇妙な並列言葉が氾濫(はんらん)している。『沖縄戦』の「強制された『集団自決』『強制集団死』」の節で執筆者の林博史氏は「集団自決」の「強制集団死」の定義として、「地域の住民が家族を超えたある程度の集団で、もはや死ぬしかないと信じ込ませ、あるいはその集団の意志に抗することができず、『自決』または相互に殺し合い、あるいは殺された出来事」と奇妙な説明をしている。

 「集団自決」という言葉は伊佐氏が『鉄の暴風』で使うまで存在しなかったのだ。渡嘉敷島の「集団自決」の現場は今でも第1玉砕場と呼ばれている。伊佐氏は「玉砕」という軍事用語を嫌い、「集団自決」という言葉を作り上げ、彼の想像を超えた形でその言葉が氾濫していったのだ。

 安仁屋正昭氏はそのことを知らず、「集団自決」という言葉を嫌い、「集団自死」とすべきだと主張したのが21世紀直前のことだった。この主張に飛び付いたのが石原昌家氏だった。「玉砕」という言葉を嫌い「集団自決」という言葉を生み出し、さらにそれを嫌って「集団自死」と主張された一連の流れを知らない石原氏が、「集団自決」「強制集団死」としたのだ。そして、さらにこうした事情を知らない林氏も、並列表記が絶対正しいと主張しているのだ。

 ほかの市町村もやはり同じだ。調査は字単位で行われているが、その数字は全て粟国村同様デタラメだ。

 筆者は95年、沖縄タイムスから「沖縄戦トップシークレット」という本を出版し、その最終章が「死者の数を膨らませたのは誰か―誤謬(ごびゅう)を重ねて作られた戦没者数の悲劇」で、大田知事や島津与志こと大城将保氏らの救い難い失態について糾弾したが、「平和の礎」の沖縄出身者戦没者数の、これまた救い難い実態について触れることができなかった。原稿を送稿したのが戦没者氏名発表の大広告の前だったからだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(23)

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

罪重い犠牲者数捏造、住民死者は最大5万5000人

 「平和の礎(いしじ)」の隠された真相については初めて明らかにした。そこに刻印された沖縄出身者のほとんどが沖縄戦とは関係ないことも理解できたものと思う。それでは、沖縄戦で一体何人の沖縄住民が死んだのか、について調べよう。

 実はその基本となる数字は既に出ているのだ。それは前回に述べた1968年琉球政府発表の全戦没者20万656人の中の戦闘協力者、そして大田昌秀著『沖縄戦とは何か』に現れる「戦闘協力者」5万5246人だ。

 20万656人という数字の中の沖縄人戦没者は44年2月22日の臨時国勢調査の沖縄本島人口49万2128人から46年1月15日の同人口32万6625人を差し引いた16万5503人を沖縄住民戦没者数とする実に乱暴なものだった。そして、臨時国勢調査の記録は米軍政府の手に渡ったが、誰も気付く者はいなかった。

 筆者は84年、米議会図書館でコピーを入手した。今でも沖縄戦研究者も機関もその大切な記録を入手していない始末だ。詳細は拙著『沖縄戦トップシークレット』の最終章「死者の数を膨らませたのは誰か」で説明したように、数学的誤謬(ごびゅう)を重ねて作られた数字が琉球政府発表の20万656人だ。

 大田氏が発表した25万6656人はさらにひどい。15万という彼が考える沖縄住民戦没者数に合わせるため9万4754人という一般住民戦没者数を作り出している。琉球政府発表の9万4000人も大田氏の9万4754人も何の意味も持たない数字だ。

 軍人軍属、防衛隊も一般住民も全て5万5246人の戦闘協力者の中に含まれているのだ。「戦闘協力者」とは、あの援護法の制定の過程で厚生省が作り出したもので、防衛隊、学徒兵、一般住民も含まれる。援護法は52年制定され、翌年沖縄にも適用されるようになった。57年、詳細な適用基準が決められ、軍の命令による自決ということであれば、援護金が支給されることになり、嘘(うそ)をついてでも援護申請する者が出てきた。だから、5万5000人という受給者は上限と見るべきだろう。

 デタラメな数字を並べて沖縄戦の住民戦没者数の数字をごまかし、県警本部を脅迫した大田氏と高山朝光知事公室長や、石原昌家氏ら「悪徳文化人」の責任は限りなく重い。

 そして、慰霊の日に「平和の礎」の事情も知らず、国の政治家、役人の面々は当たり前のように参拝を続けている。本当に情けない。来年からの慰霊の日には、「平和の礎」の恐るべき真相をしっかり把握し、愚の骨頂を繰り返してはならない。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(22)

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

沖縄戦戦没者 三つの数字 水増しされた住民死者数

 沖縄戦の「戦没者総数」として三つの数字が存在する。①1968年、琉球政府が発表した「20万656人」②大田昌秀氏が『沖縄戦とは何か』(85年版)で発表した「25万6656人」③「平和の礎(いしじ)」に刻銘された「24万1468人」(2017年度)―だ。これから、これらの数字が全て子供騙(だま)しの欺瞞(ぎまん)、いや、詐欺であることを単純明快に証明したい。

 ①の数字が導き出された経緯は嶋津与志こと大城将保氏の著書『沖縄戦を考える』(1983年版)に詳しい。この著書によれば、沖縄戦が始まる前の44年2月の沖縄本島の人口から46年1月の沖縄本島の人口を差し引いた「16万5503人」を全住民戦没者と推定した。戦前と戦後の本島人口は、米軍政府が調査したものであり、「沖縄本島」の人口調査結果であることに注意が必要だ。

 83年当時、教科書検定問題で名を知られるようになった家永三郎氏は「16万5503人」を沖縄住民戦没者として発表していたのだが、後日、沖縄県が沖縄本島からの疎開者数「6万2000人」を差し引いた「10万3503人」を住民戦没者数と「訂正」すると、家永氏もこの数に変更する始末だ。

 他にも細かい思い違いを重ねて、琉球政府は68年、住民戦没者数を9万4000人として公式に①「20万656人」を発表した。本土兵6万5908人、軍人軍属2万8228人、住民戦闘協力者5万5246人、一般住民3万8754人、アメリカ兵1万2520人がその内訳だ。

 ここで注意しなければならないのは、住民戦闘協力者は援護課の制定過程で既に全住民戦没者数に含まれていることだ。

 さて、大田氏は沖縄戦の全戦没者として②「25万6656人」を著書で発表している。その中で本土兵を「正規軍」、軍人軍属を「防衛隊」と呼び変えているが、数字は同じだ。大田氏は沖縄県出身戦没者として、防衛隊2万8228人、戦闘協力者5万5246人、一般住民9万4754人を挙げている。

 大田氏が発表した一般住民9万4754人とは何だろうか。からくりは単純だ。戦闘協力者と一般住民と足すとピタリと15万人。つまり、大田氏も大城氏も戦没者数を水増しし、沖縄戦の住民戦没者は3人に1人とか、4人に1人とかバカバカしい主張を繰り返ししている。それでは一体、何人の住民戦没者数が出たのか検証しよう。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(21)

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

デタラメな調査で大広告、生存者も戦没者名簿に

 1995年1月16日、前代未聞の大広告が沖縄タイムスと琉球新報に出た。48ページにわたる「平和の礎(いしじ)に刻銘する沖縄県出身戦没者名簿」の広告だ。この大広告には県知事の権限内の6000万円(タイムス、新報に3000万円ずつ)が出費されている。

 この大広告で発表された「戦没者」とは前年の11月28日から12月9日までに整理されたものだ、ということで約14万9000余人に及ぶ。ところが、調査対象者は満州事変の始まった31年9月から46年9月までに沖縄県および国内はもとより、中国(満州や台湾を含む)、朝鮮、南洋諸島などで戦没された方だと明記されている。

 この名簿を集めたのは各字の長老たちであり、大田昌秀知事の選挙目的であることは明らかだ。実際、この広告が発表されると少なくとも10人の生存者が「生きているのに」と新聞に投稿したり、家族単位の刻銘であるべきなのに「あいうえお」順にしたり、不手際が生じ、翌年、大田知事は6000万円を出してひそかに訂正している。

 そして、実は「平和の礎」建立費用15億円は国が出費していることを誰も知らない。だから初め、憲法の三権分立に触れることを恐れ、「平和の礎は慰霊の碑ではありません。献花や線香はご遠慮下さい」という立て札が立てられていた。

 だが、それよりも何よりも沖縄に関する戦没者調査が実にデタラメであり、「沖縄戦」で一体どれだけの住民が死んだのか、全く分からないことが重要なことだ。

 例を挙げよう。粟国村史(82年版)によれば、「3月23日戦争が始まり、6月9日、4万人のアメリカ機動部隊が無血上陸」となっており、全期間の戦没者約20人と記されている。そして「平和の礎」には「601人」の戦没者名が刻銘されている。アメリカ軍上陸部隊は1000人であるのに4万人に、20人弱の戦没者が600人に膨れ上がっている。なぜか。満州事変から戦後までの粟国村出身者を刻銘したからであり、アメリカ上陸部隊の数があきれるほど違うのは、粟国村では大戦争があったと思い込んでいたからだ。

 ほかの市町村もやはり同じだ。調査は字単位で行われているが、その数字は全て粟国村同様デタラメだ。

 筆者は95年、沖縄タイムスから「沖縄戦トップシークレット」という本を出版し、その最終章が「死者の数を膨らませたのは誰か―誤謬(ごびゅう)を重ねて作られた戦没者数の悲劇」で、大田知事や島津与志こと大城将保氏らの救い難い失態について糾弾したが、「平和の礎」の沖縄出身者戦没者数の、これまた救い難い実態について触れることができなかった。原稿を送稿したのが戦没者氏名発表の大広告の前だったからだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(20)

左翼文化人からノーベル平和賞に推薦された故翁長雄志氏

左翼文化人からノーベル平和賞に推薦された故翁長雄志氏

「平和賞」候補への推薦、無知な「文化人」の売名行為

 1992年の暮れは沖縄知事公室と県警本部は異常な緊張に包まれていた。ついに大田昌秀知事は「上原の告訴状を取り下げさせろ。そうでなければ、4月末に来沖予定の天皇皇后両陛下の警備費用は絶対に出さん」と高山朝光知事公室長を通して迫ってきた。やむなく、佐野智則県警本部長は那覇署のA警部補らを呼び出し、事情を説明し、「告訴状を何とか取り下げてくれないか」と頼んだ。大田知事は「予算計上」という知事権限を利用し、警察を脅迫していたのだ。

 こうして正月のあの日、2人の警察官は筆者に涙ながらに「告訴状」を取り下げるよう頼んできたのだ。2時間近くの説明の後、警部補は胸から「告訴状」そのものを出し、そっと筆者の前に置き、肩を落として去っていった。つまり「告訴」はなかったことになったのだ。この事件は筆者にとって痛恨の出来事だったが、2人の警察官ら真相を知る警察関係者にとっては「一生の不覚」と言える事件だった。

 その真相を今、読者に明かすには、昨年「平和の礎(いしじ)」建立の「功績」により、大田昌秀氏をノーベル平和賞候補に推薦したかと思えば、今年5月には「翁長雄志知事に平和賞を」と、オール沖縄会議共同代表の高良鉄美琉大教授ら、沖縄戦について全く無知な「文化人」が売名行為に走っていたことがある。

 先にも指摘したが、ノーベル賞の推薦者と被推薦者の氏名は50年間秘密にし、表に出してはならないという規定があり、大田氏や翁長氏らの名を発表してはならないのだ。そして、もう一つ、ノーベル平和賞に推薦された8人の中にはあの高山朝光氏の名が入っているのだ。天皇皇后両陛下の安全を人質にして、大田知事の代理として県警本部長に知事告訴状を取り下げさせた悪党がノーベル平和賞候補に取り上げられている。実に恥ずべきことだ。

 95年6月23日、「平和の礎」の除幕式が開かれたことについて、大田氏と翁長氏の御用学者となった石原昌家・平和の礎建設委員長は「除幕式には村山富市総理大臣をはじめ、衆議院議長土井たか子、最高裁判所長官草場良人という三権の長がそろって列席する県政史上初の歴史的な催しとなった」と自慢し、その後、毎年、慰霊の日には首相や閣僚が参列することになった。もちろん「平和の礎」の生みの親である筆者に対する暴虐の限りについては触れず、誰も知らない。これは実は、大田氏や翁長氏らが犯した大罪の一つにすぎない。その大罪の中の最大のことが「平和の礎」の戦没者名と戦没者の数の恐るべき欺瞞(ぎまん)だ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(19)

新里英之著の「大田沖縄県知事の背信行為」で告訴状に触れている

新里英之著の「大田沖縄県知事の背信行為」で告訴状に触れている

告訴取り下げ迫られる、天皇陛下警備と引き換えに

 1992年12月県議会で西田健次郎議員は代表質問に立ち、「上原正稔氏が大田昌秀県知事を被告人として暴行ならびに侮辱罪で県警本部に告訴した旨、(新里英之氏の)プレス1紙に報じられている」と質問した。だが、大田知事は答えた。「告訴の事由にされている暴行および侮辱罪に該当するような事実は全くありません」

 次に県警の佐野智則本部長が答えた。「ご質問の告訴状につきましては、上原正稔氏より本年11月18日、那覇警察署へ提出されております。(中略)事実関係を確認の上、適正に対処する所存でございます」

 佐野本部長は本気だった。県警本部長は県議会が開催されるたびに議会に出席せねばならないから、実に重労働職だ。退屈な議会のやりとりの中で居眠りするわけにもいかないのだ。そんな中で知事の暴行罪というトンデモない事件が発生した。しかし、この事件は全ての真人間の予期せざる方向へ流れていったのだ。

 93年の年が明けてのことだった。那覇署のA警部補と警察官が糸満市の筆者を訪ねてきた。2人は気の毒なほど緊張していた。そして、ようやく口を開くと、「告訴を取り下げてくれませんか」と切り出した。「告訴を受理してから取り下げてくれ」とは何事だ。しかも、県警本部長は議会で「きちんと調査します」と明言しているのだ。事件の目撃証人は数十人もいる。

 警部補らは2時間にわたり、詳しく説明した。まさに信じられない、あってはならない話だった。

 その話をまとめると次の通りだ。92年12月議会が終わると、大田知事は高山朝光知事公室長を県警本部長室に送り出し、上原の告訴の件をよろしく頼む、と伝えた。佐野本部長は「それは那覇署が調査中であり、被告の知事がどうのこうの言うことはできませんよ」と突っぱねた。すると、高山室長は知事の本音を切り出した。「もしも県警がどうしても上原の告訴の件で調査を進めるというのであれば、来年4月の全国植樹祭の天皇皇后両陛下警備費用を出さないことにします」。これには、さすがの堅物の佐野本部長も驚いた。「本気かね」と尋ねる本部長に、「知事が警備費用を出さなくなることは間違いありません。知事は本気です」と高山室長は答えた。

 佐野本部長が腹の底で「気違い沙汰だ。沖縄はどうなっているんだ」と嘆いたことは間違いない。しかしながら、大田知事の正体を知れば納得できる。完全に良心が麻痺(まひ)した男にとって、こんなことは当たり前のことで、むしろ「名案」だった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(18)

上原正稔氏原作マンガ「裸の王様」の一コマ

上原正稔氏原作マンガ「裸の王様」の一コマ

酔った知事が襲撃、「人間失格、心の底から軽蔑」

 事件は1992年9月13日に起きた。戦後、琉球政府の民生官を務めたロバート・フィアリー氏を歓迎する戦後史シンポジウムのパーティーが那覇市内のホテルで催された。

 会場には、クリステンセン在沖米総領事ら多数の沖縄の“文化人”が集まっていた。フィアリー氏と総領事に挨拶(あいさつ)を済ませ、沖縄タイムスの古参記者大山哲氏や琉球銀行調査室長の牧野浩隆氏(後の副知事)らと談笑していた。筆者の存在に気が付いた大田知事の秘書・桑高英彦氏は顔色を変えて、会場から出ていった。

 突然、会場の奥から顔を上気させ、目をつり上げ、恐ろしい形相をした酒乱男が、筆者に向かって「おい、上原、お前は県議会でよくも俺の悪口を言ったな」と叫びながらつかみかかり、その右手で筆者の脇腹に拳をぶつけ、組んずほぐれつの大喧嘩(けんか)が始まった。その男が大田知事だった。

 会場の“文化人”らは呆気(あっけ)にとられ、仰天している。誰も知事を止める者はいない。やがて知事の罵声を聞いた宮城悦二郎氏が青い顔をして駆け付けてきて、知事を押さえようとするが、キレた知事を押さえることができない。3人がかりでようやく押さえ付けたが、知事は「誰がアイツを入れたんだ」とわめいている。

 何という醜態だ。筆者は怒りが込み上げて、「知事たる者がなんだ。貴様は知事(チジ)じゃないか。沖縄の恥(ハジ)だ。知事を辞めろ」と叫んで、憤然として会場を出ようとした。出口には20人ほどの琉球大学の女子学生が「送り出し」の役で並んでいたが、皆、茫然(ぼうぜん)としている。泣いている少女もいる。筆者はそこで、われに返り、惨劇の場を後にした。

 しかし、この「事件」は一行も報道されることはなかった。

 大田知事の言う「県議会で上原(筆者)が知事の悪口を言った」の真相は次の通りだ。

 筆者は事件の1年前の県議会に「筆者が提唱した『沖縄戦メモリアル』を知事が剽窃(ひょうせつ)(盗作のこと)しているので、やめさせてもらいたい」と陳情書を出した。91年10月29日、文教委員会は聴聞会を開き、筆者は2時間にわたり証言した。

 最後に、委員の一人から「大田知事を今、どう思うか」と質問があり、筆者は率直に言った。「大田知事は人間失格であり、ぼくは心の底から軽蔑する」。県議会でいかなる知事も一市民からこのような侮蔑の言葉を投げ掛けられたことはないだろう。だが、裸の王様の行列を見て、「あっ、王様は裸だ」と言ったにすぎない。

 もちろん、問題はこれで終わらなかった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(17)

沖縄戦メモリアル建立を報じる1991年4月17日付琉球新報

沖縄戦メモリアル建立を報じる1991年4月17日付琉球新報

裏切った有識者たち、知事の権力におもねる

 偽善者には2種類がある。「自分があくどいことをやっていることを知りながら、赤信号、みんなで渡れば恐くない」とふんぞり返る偽善者。「自分があくどいことをやっていることを自覚せず、やりたい放題のことをやる」恥も外聞もない偽善者だ。かつては沖縄タイムスと琉球新報が曲がりなりにも第4の権力ジャーナリズムとして、権力者の腐敗に「物申す」姿勢を見せていたが、今では両新聞は権力の腐敗を覆い隠すブラックジャーナリズムに成り果てている。

 「沖縄戦メモリアルを具志頭村に建立」との報道が大々的になされた1991年4月17日は筆者にとって祝福の日となるはずだったが、新たな苦難の始まりとなった。

 大田昌秀知事はすぐに宮城悦二郎琉球大学教授に連絡を入れ、「沖縄戦の全戦没者の名を石に刻む計画を私の知事としての目玉事業にするので、君が代表となって実行してくれ」と依頼した。しかし、彼は筆者が1フィート運動で悲惨な目に遭ったことも知っており、さらに大田氏のあくどい性格を誰よりも知っていた。だから、「私には私の仕事があるので」としてやんわりと断った。

 そこで、知事は石原昌家氏に県の新たな目玉事業の代表となってくれるよう依頼した。石原氏は飛び上がって喜んだ。知事のお墨付きで大仕事ができるのだ。「上原の沖縄戦メモリアル」など、「どこ吹く風」だった。筆者は抗議のため沖縄国際大学の石原研究室に行ったが、面会を拒絶された。

 また、沖縄戦メモリアル建立運動の発起人であった比屋根照夫琉球大学教授から電話が入り、彼は「大田知事から依頼を受けたので、沖縄戦メモリアルの委員を辞退したい」と告げたのだ。

 さらにひどいのが、詩人・作家として知られ、反戦平和運動と縁のなかったはずの船越義彰氏の場合だ。彼は大田知事から依頼を受けて、県の目玉事業「平和の壁」建立委員会の重要メンバーになっていた。県庁前で船越氏に出会い、「あなたは沖縄戦メモリアルの発起人のはずだったが、いつの間にか、平和の壁委員会メンバーになっている。人の道に反するぞ」と言う筆者の怒りの声に対し、「何と言っても知事だからね。あなたも委員会のメンバーに推薦しておいたよ」と平然と答えた。

 筆者は言葉を失った。筆者の周りの世界がガラガラと崩れていった。筆者は川平朝申、照屋善彦両先生にはこうした情けない実情については黙っておくことにした。彼らのような本物の善人たちには苦労をさせてはならない。筆者は一人で巨悪との闘いを続けることを決意した。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(16)

敵味方関係なく刻銘されている平和の礎(いしじ)

敵味方関係なく刻銘されている平和の礎(いしじ)

奪われるメモリアル構想、大田知事「蝋人形を作れ」

 1991年3月、筆者は具志頭村の上原文一氏、そして屋宜宣純村長と話を詰めた。その時、村長は「このメモリアル建立構想は全県的なものになるので、大田昌秀知事に協力を仰ごうではないか」と言った。それは確かに正論だが、筆者は大田知事ら“反戦平和運動家”の正体を知り、彼らに「1フィート運動」を奪われたこともあり、ためらいがあった。

 大田知事は顔を妙に歪(ゆが)めて、「久しぶりだな」と言った。筆者は早速、要件を切り出し、「知事にもご協力いただきたい」と求めた。

 すると、知事は「上原君、実は沖縄戦メモリアル構想は私も昔から考えていた。これは私がやるから、君たちは蝋(ろう)人形で戦争資料館を造ったらよいだろう。君たちは記念碑を建てる金もないだろうし、蝋人形資料館の予算なら私が出そうじゃないか」と抜け抜けと言ったのだ。

 筆者の頭に血が上った。「そうか、沖縄戦メモリアル建立の計画を奪う代わりに、思い付いたのが、蝋人形資料館というわけか」。隣席にいる屋宜村長、上原氏らも愕然(がくぜん)としている。

 筆者が「そんなこと、これまでどこにも発表したことないじゃないか」と問い詰めると、「考えていたことは確かだ」と言う。

 大田知事は薄笑いを浮かべると、怒りに震えて立ち上がるわれわれに、こう言い放った。「あ、そうそう。今日のこの会談は新聞社には内緒にしてくれよ」

 知事室を出ると、怒り心頭に発した筆者は「知事抜きで事を進めよう。近々、記者会見で発表しますよ」と言うと、大田知事の正体を見た屋宜村長は「そうしてくれ」と昂然(こうぜん)と受け止めてくれた。

 4月16日、筆者は那覇市内で記者会見を開いた。翌日、琉球新報と沖縄タイムスは大々的に報じた。特に琉球新報は「沖縄戦メモリアル 具志頭村に建立へ―全戦没者の名刻み、95年完成予定」と大見出しを付け、その内容を詳しく紹介した。

 普通これだけの報道をされたら、どんなあくどい政治家でも、これを奪い取ろうなどと考えぬものだが、大田知事は違った。彼は、全戦没者の名を刻む沖縄戦メモリアルの政治的インパクトを知っていた。だから、新聞報道が出るや否や、「沖縄戦メモリアル」の奪い取り作戦に出た。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(15)

刻銘碑前で献花の用意をする米兵

刻銘碑前で献花の用意をする米兵

立ちはだかる反戦平和、地元紙がメモリアル構想報道

 1990年にはロジャー・ピノー氏から海軍兵士戦死者約5000人の名簿が送られてきた。6月21日、慰霊の日の前に沖縄戦メモリアル建立の構想を友人たちと一緒に記者会見で発表した。翌日、まず琉球新報が「沖縄戦永遠に記録―全戦没者名も調査―メモリアル運動展開へ」という見出しで報道した。

 「この運動は作家の上原正稔氏らが発起人。(中略)メモリアル運動は沖縄戦メモリアルの建立と沖縄戦ライブラリーの2計画。沖縄戦メモリアルは、沖縄戦で亡くなった日米両軍の兵士、一般住民、朝鮮人軍夫などすべての犠牲者の名前を調べあげ岩壁に刻み込み、その名を残そうというもの。沖縄戦ライブラリーは米軍の公文書館など各地に残されている沖縄戦資料、写真、フィルムを収集し、一般に提供するというもの」

 6月26日の沖縄タイムスは「沖縄戦メモリアル運動―上原氏らが呼び掛け」と写真付きで報道した。

 ここで読者の皆さんに指摘しておきたいのは、沖縄の新聞が“沖縄戦メモリアル運動”を報道した6月には、知事は西銘順治氏であり、その年の10月の知事選挙で大田昌秀氏が西銘氏を破って知事になったことだ。

 敵も味方も、兵士も住民も、大人も子供も、全ての戦没者の氏名を一つの記念碑に刻むという発想は1フィート運動の比ではなかった。早速、具志頭村(現在の八重瀬町)から電話が入った。上原文一という役場の課長だった。彼の話では、具志頭村は陸の孤島でこれといった観光施設もない。つい先日、「平和の壁」構想を県に出したばかりだ、と言う。しかし、そこには沖縄戦の戦没者の名を刻むという発想が欠けていた。「沖縄戦メモリアル建立の構想は素晴らしい。土地は村が提供するので、ぜひ具志頭村に建立してくれないか」

 こうして、具志頭村に沖縄戦メモリアルを建立することが決まった。「沖縄戦ライブラリー」は別の市町村でよい。これが後に県公文書館(南風原町)になったことを知る人はほとんどいない。

 ともかく、全ての沖縄戦戦没者の氏名を刻印するメモリアルの場所は決まった。全琉球、全国、いや、米国民からも絶大な賛同を得られることは間違いない。

 筆者は15歳以上、つまり高校生から大学生が集めた戦没者名簿が正しいかどうか、チェックする組織の編成を始めなければならない。“反戦平和運動家”という腐り切った人間たちに奪われた、あの1フィート運動の二の舞いを演じてはならない。しかしながら、またしても、“公権力”と反戦平和の恐るべき壁が立ちはだかったのだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(14)

「平和の礎(いしじ)」の米国出身者刻銘碑では毎年、米戦没者慰霊祭が行われている

「平和の礎(いしじ)」の米国出身者刻銘碑では毎年、米戦没者慰霊祭が行われている

名簿探しに奔走、敵味方なく戦没者を刻銘

 筆者は自分が始めた1フィート運動という「世のため人のために役立つ」仕事を奪われ、しばらく怒り心頭に発し、放心していた。振り返ってみると、平和運動家を表明していた大田昌秀、石原昌家、安仁屋政昭、外間政彰(市立図書館長)らの諸氏は「寄付金を全島民から集め、世のため人のために役立つ仕事」をしたことがなかったのだ。だから、筆者らから仕事を奪っても良心が痛まないということだ。

 筆者は作家活動を続けながら、1フィート運動より、「世のため人のために役立つ仕事」はないか、探していた。何度もワシントンDCの米公文書館に通う中で、一つの構想が浮かんできたのだ。

 スミソニアン博物館の敷地内にベトナム・メモリアルがある。5万8000人のアメリカ兵犠牲者の氏名が刻銘されているのだ。だが、何十万というベトナム人犠牲者の氏名は全くない。これはフェアではない。世界を見ても自国民の犠牲者の氏名は記録、あるいは刻銘されているが、敵も味方も一緒に刻銘されたメモリアルは一つもない。

 沖縄戦で亡くなった全ての人々の氏名を刻銘したメモリアル(記念碑)を建立しよう。沖縄の人々だけでなく、全国の人々が無条件に協力してくれるはずだ。

 さらにアメリカの人々も全面的に応援してくれるはずだ。沖縄戦や大琉球の研究の過程で親しくなった歴史家ロジャー・ピノー氏が「これは素晴らしい仕事になるぞ」と喜んでくれた。

 筆者は1986年「大琉球」の本を完成すると、「沖縄戦メモリアル」建立の計画を進めた。1フィート運動の失敗を繰り返してはならない。平和運動家を全て排除して事を進めるのだ。

 筆者はその頃には、いかなる“平和”を唱える者も偽善者だと確信していた。ピノー、川平朝申、照屋義彦らの諸氏と10人ほどの委員を集めた。筆者が実行委員長となって、95年、すなわち沖縄戦50周年の慰霊の日に完成する計画だった。

 一番の問題はどのように戦没者名を募るか、ということだ。アメリカ兵の沖縄戦戦没者名簿は米公文書館などで軍隊別に保存されているから、ピノー氏に一任すればよい。日本兵の戦没者名も厚生省や都道府県に協力を仰げばよい。

 問題は沖縄だ。筆者も1フィート運動を始めるまで、沖縄戦に全く関心がなかった。若者たちは沖縄戦を知るきっかけを与えられていない。高校生、大学生たちが自分の家族の沖縄戦の体験を聞き、消息を確認することから始めればよいのだ。

 こうして、沖縄戦メモリアル建立のアイデアが一つ一つ固まっていった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(13)

平和の礎の前で祈る遺族ら

平和の礎の前で祈る遺族ら

沖縄戦メモリアル構想、反戦平和に乗っ取られる

 「平和の礎(いしじ)」をインターネットで検索してみよう。「沖縄県平和祈念公園」には敵味方関係なく、沖縄戦の死者全て24万1468人が刻銘されていることが記されている。だが、この数字が子供ダマシの虚偽、いや、詐欺であることを知る者はいない。そして、ウィキペディアには以下のように書かれている。

 <ドキュメンタリー作家の上原正稔は、ベトナム戦争で戦没した兵士を弔うためにワシントンDCに建てられたベトナム戦争戦没者慰霊碑のことを知ったが、これには亡くなったベトナム人の名前が全く刻まれていなかった。これをきっかけとして、米海軍歴史家のロジャー・ピノー、川平朝申、照屋善彦、米須清一等と「沖縄戦メモリアル構想」を1990年6月22日、記者会見で発表した。(中略)1994年4月、平和の礎建設検討会が設置され、同年7月に工事が起工され、1995年6月23日除幕された。>

 だが、今、誰も上原正稔(筆者)やロジャー・ピノー、川平朝申、照屋善彦、米須清一らの功績を語ることはない。それはなぜか。その前に、なぜ筆者が90年6月に「沖縄戦メモリアル構想」を記者会見で発表したのか、簡潔に説明しよう。

 83年6月、筆者は沖縄戦のフィルムが米公文書館に手付かずに存在することを知った。素晴らしい発想が浮かんできた。沖縄の全ての人々が1人100円を出してフィルムを集めるのだ。沖縄の十数人の知識人や文化人に会い、協力をお願いすると皆、喜んで協力しようと言ってくれた。筆者は、その頃は新聞で“反戦平和”の活躍をしている文化人は皆、善意の人々だと信じていた。

 話は省くが、後に集団自決の問題や沖縄戦メモリアルの問題で筆者と敵対する関係になる人物の氏名だけはここに記しておこう。大田昌秀、石原昌家、安仁屋政昭、新崎盛暉らの諸氏だ。そして、「私も委員に入れてくれ」と頼んできた福地曠昭(ひろあき)氏がいた。

 全ての準備が整った83年12月8日、1フィート運動を立ち上げた。本土からも問い合わせの電話が殺到し、あっという間に1000万円の大台を突破した。翌年4月に米公文書館に行き、12本の沖縄戦フィルムを精選した。帰ってくると、那覇の公民館で上映会を催した。超満員の盛況だった。そのうちの1本に“白旗”の少女がいた。だが、筆者の仕事はそこまでだった。

 アメリカに出張している間に筆者の追い出し工作がひそかに進められていたのだ。“善意の文化人”らは“悪徳の大泥棒”に変身していた。筆者は自分が創った組織から信じられない仕打ちを受けた。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(12)

沖縄県摩文仁の沖縄県平和祈念公園にある「平和の火」

沖縄県摩文仁の沖縄県平和祈念公園にある「平和の火」

マスコミと自作自演、大田元知事にノーベル平和賞?

 話は核心に迫ったところだが、ここからは副題の「慶良間諸島の“集団自決”の真相」をしばらく棚上げにして、6月23日の慰霊の日に全県民が祈る「平和の礎(いしじ)」の知られざる大問題に入ろう。

 昨年4月4日、琉球新報と沖縄タイムスは「大田昌秀元知事がノーベル平和賞候補にノミネートされた」と発表した。「県知事として“平和の礎”を設置した」のが大きな理由だった。「命(ぬち)どぅ宝のマブイ(魂)を継承し、平和の礎を創設した沖縄の人びとにノーベル賞を」という長ったらしい名前の実行委員会が記者会見で明らかにしたものだ。

 共同実行委員は琉球大学の高良鉄美教授、沖縄国際大学の石原昌家名誉教授らだった。その後、沖縄の新聞、テレビは翁長雄志知事らが大田元知事の功績をたたえる会を組織し、政治家らを集めて“祝賀会”を催したことを報道した。

 だが、その裏の醜い真相に触れる記事はなかった。そして昨年6月12日、大田元知事はこの世を思う存分“蹴散らし”、翁長知事に“惜しまれて”この世を去った。

 バカ騒ぎはこれで終わったかと思いきや、つい先日の5月22日、沖縄の新聞は「翁長知事ら平和賞候補に―ノーベル賞委から通知」と報道したのだ。実行委員会は昨年と全く同様に長ったらしい名前で、共同実行代表者の名前も高良氏だ。ノーベル賞の候補者は故大田氏に代え、翁長知事、沖縄平和運動センターの山城博治議長(その素性については読者もご存じの通り)、高山朝光氏(大田知事時代の知事公室長)、石原氏、山内徳信氏(元読谷村長)ら、“オール沖縄”派の人物8人と2団体だ。

 このような人たちがノーベル平和賞の候補にノミネートされるというのは異常であきれるばかりだ。ところで、ノミネートという言葉だが、その意味は“指名される”と思っておられる読者がほとんどだろう。“指名”ではなく“推薦”が正しい。

 ノルウェーノーベル委員会の規約には、「ノーベル平和賞の推薦者と被推薦者の氏名は50年後まで秘密にする」とある。昨年の大田氏や今年の翁長知事らのノミネートの件も、政治利用と売名行為が目的であり、ノーベル委員会の規約に違反していることを指摘しておこう。

 そしてもう一つ。その前の1月28日までに推薦状を提出しなければならないという規約がある。こうした規約についてはインターネットで直ちに判明することだ。いずれにせよ、ノーベル賞を利用して売名行為に走る沖縄の文化人や政治家が本当に恥知らずで人間失格であることはこれから詳述しよう。

※記事は2018年に掲載されたものです。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(11)

琉球政府時代に援護課で渡嘉敷島を調査した照屋昇雄さん

琉球政府時代に援護課で渡嘉敷島を調査した照屋昇雄さん

梅澤隊長は軍命出さず、母の嘘の証言を娘が覆す

 『母の遺言』はこう締めくくる。

 <1980年、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出て以来、彼の戦後の生活が惨さんたるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分が生きているうちに、ほんとのことを伝えたいと思っていたからである。
 母は「事実」を元隊長に話したことで、島の人との間に軋れきが生じ、悩み苦しんだあげく、とうとう1991年12月6日他界してしまった。>

 以上が宮城晴美さんが発表したコラム『母の遺言―きり取られた自決命令』の要旨だ。
 よく知られていることだが、2000年、晴美さんは高文研社から『母の遺したもの』を出版した。内容は「梅澤隊長は自決命令を出していない」ことを根底に書かれている。しかしながら、自身が1995年の慰霊の日に合わせて沖縄タイムスで発表した重要コラムには一切触れていない。関係者の実名は伏せているが、このコラムは住民の“集団自決”と“援護法”が深く関わっていることを初めて明らかにし、衝撃が走り、軍命により“集団自決”が始まった、と信じて反戦平和を叫んでいた人々はショックを受けた。

 特に、座間味の有力者や関係者は真実を暴露され、怒り狂った。母初枝さんが隊長命令で“集団自決”が始まったと嘘(うそ)の証言で「パンドラの箱」を開け、娘の晴美さんが再び開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。

 そうか、そうだったのか。筆者の目の前の霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般住民の戦死者でも戦闘に協力した者には援護法による“年金”を支給するという条件を出してきたため、座間味だけでなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなくなったのだ。

 2006年1月、産経新聞は琉球政府で援護業務に携わり渡嘉敷を調査した照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、赤松隊長の悪口を書かれるたびに心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。

 ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は1957年には援護課に勤務していないという証拠がある」として産経新聞の「誤報」と報じた。後日、照屋さんは大切に保管していた54年の「任命書」を提出し、この問題は決着したが、タイムスがこの失態を報じることはなかった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(10)

宮城晴美氏が著した「母の遺したもの」の初版(左)と新版

宮城晴美氏が著した「母の遺したもの」の初版(左)と新版

自決者は“戦争協力者”、「援護法」を意識した母

 「援護法とのはざまで」の小見出しを付けた『母の遺言』を紹介しよう。

 <母との話は1950年代にさかのぼった。沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では1953年から戦没者遺族の調査が着手されていたが、それから3年後の1956年村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。この援護法は、軍人軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は“戦争協力者”として、遺族に年金を支払うべきであると主張した、というのである。(中略)
 その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人達を見殺しにするのか」という長老(古波蔵村長のこと)の怒りに屈してしまったようである。それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。>

 続いて、「忠魂碑の前に」の小見出しの箇所だ。

 <1945年3月25日、3日前から続いた空襲に代わって島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包み込まれる。そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令の声が届いたのである。その前に母はこの伝令を含めた島の有力者4人とともに梅澤隊長に面会している。(中略)有力者の1人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

 そのとき、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた5人はそのまま壕に引き返した。(中略)

 翌日の3月26日、上陸した米軍を見た住民がパニックを起こして、家族同士の殺し合いが始まったのである。母と共に梅澤隊長のもとを引き揚げた4人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、戦後、母が“証言台”に立たされたのもやむを得ないことであった。>

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(9)

座間味島の集団自決跡地から見た座間味港

座間味島の集団自決跡地から見た座間味港

宮城晴美氏のコラム 集団自決の重要証言含む

 コラム『母の遺言―きり取られた“自決命令”』(上、中、下)の骨子をここに紹介しよう。重要な証言が含まれているので、かなり詳しく紹介することをお許し願いたい。
 <その年、母は座間味島の「集団自決者」の名簿を取り出し、一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した“武器”、遺体を収容したときの状況など、これから自分が話すことのすべてを記録するよう、娘の私に指示してきた。(中略)母は知りうる限りの情報を私に提供し、そして一冊のノートを託したのである。>

 「“真実”を綴(つづ)ったノート」の小見出しで記事はこう続く。

 <そしてわたしに託された一冊のノート。それは字数にして四百字詰め原稿用紙の約百枚に及ぶもので、母の戦争体験を日を追って詳しく綴ったものであった。母は『いづれ時機を見計らって発表しなさい』とノートを手渡したのである。
 ただ、母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で2度発表している。(中略)
 ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのか、ということになるが、じつは、母にとっては“不本意”な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
 「“不本意”な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものである。>

 「自責の念にかられる」の小見出しの個所はこう綴る。

 <とくに『悲劇の座間味島』に掲載された「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合し、玉砕すべし」と梅澤部隊長からの命令が出されたくだりが『沖縄県史10 沖縄戦記録』をはじめとして、多くの書籍や記録のなかで使われるようになり、その部分だけが切り取られ独り歩きをしだしたことに母の苦悩があった。(中略)
 そしてもう一つの“不本意”な理由、それは、自分の証言で「梅澤部隊長」個人を、戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念であった。これが最も大きい理由であったのかもしれない。
 母はどうして座間味島の“集団自決”が隊長命令だと書かねばならなかったのか、その真相について私に語りだしたのは戦没者の三十三回忌(1977年)の年に(雑誌『青い海』の記者として)座間味島の取材に出かけたときのことである。>

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(8)

渡嘉敷島の集団自決碑の説明板

渡嘉敷島の集団自決碑の説明板

罪をかぶった赤松隊長、援護法適用に「軍命」不可欠

 筆者は、グレン・シアレスさんの手記を1996年6月1日から13回シリーズ「沖縄戦ショウダウン」として沖縄の新聞で発表した。ショウダウンとはポーカーで賭博師が有り金を全て賭けて、最後の大勝負に出て、その手札をさらけ出す様をいう。ここから、ショウダウン、すなわち、決戦という用語が生まれた。
 その中で、長いコラム「渡嘉敷で何が起きたのか」を追加した。その最後で筆者はこう書いた。
 <国の援護法が住民の自決者に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村に迷惑をかけることになることを赤松嘉次さんは知っていた。だからこそ一切の釈明もせず、赤松さんは世を去ったのである。
 一人の人間をスケープゴート(犠牲)にして『集団自決』の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。筆者も長い間『赤松さんは赤鬼だ』との先入観を拭い去ることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。筆者は読者と共に、一つ脱皮をして一つ大人になった気がする。だが真実を知るのがあまりにも遅過ぎた。赤松さんは1980年1月に帰らぬ人となってしまった>
 2011年10月中旬、兵庫県を訪れ、赤松さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。
 渡嘉敷の戦争の物語は今、ほんの1ページが開かれただけである。次のページに何が隠されているのか誰も知らない。
 では、なぜ筆者はこの時(1996年)「国の援護法が住民の自決者に適用されるには軍の自決命令が不可欠である」ことを知っていたのか、賢明な読者は問うだろう。
 その前年の沖縄戦50周年の慰霊の日に合わせて宮城晴美氏が発表したコラム「母の遺言―きり取られた“自決命令”」に全ての理由がある。
 6月22、23、24日に発表されたコラムは実に衝撃的なものだった。しかし、今、このコラムの存在については誰も触れない。いや、宮城晴美氏が隠すことに成功したと言えるだろいう。「大江・岩波裁判」の原告も弁護団も、このコラムを引用すれば裁判に絶対的に優位に戦えたはずなのだが、このコラムの存在に気付いていなかったのである。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(7)

北山にある国立沖縄青少年交流の家の敷地に隣接する「集団自決の碑」

北山にある国立沖縄青少年交流の家の敷地に隣接する「集団自決の碑」

「天皇のために死ぬ、言葉に尽くし得ぬ情景」

 3月28日小雨のち晴れ、夜小雨。夜間、敵情視察のため各地に散っていた部隊が夜明けとともに北山(にしやま)急造陣地に帰隊。道案内の防衛隊員は家族と共に手榴弾(しゅりゅうだん)で自決。このような自決が2、3件既に始まっていた。
 ウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。防衛隊員は自分の家族にまず手榴弾を渡し、その使用法を教えた。天皇陛下のために死ぬ。国のために死ぬのだ。誰も疑問はなかった。恐ろしい鬼畜は砲弾を雨あられと降らし、今にもやって来るのだ。
 夕刻、古波蔵惟好村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と厳かに言った。「天皇陛下万歳!」と叫ぶと、皆、両手を挙げて三唱した。
 村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが、爆発しない。見かねた真喜屋実意前村長が最初に手榴弾を爆発させ、吹き飛んだ。堰(せき)を切ったように住民はわれもわれもと手榴弾を爆発させた。だが、不発弾が多いのか、爆発しないものが多い。手榴弾が足りない。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と兵事主任の新城真順が村長に言った。村長は「よし、そうしよう。みんな、ついて来なさい」と先頭に立って300~400メートル南の急造本部壕(ごう)に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の迫砲が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。
 赤松嘉次隊長が防衛隊員に命じて「武器はやれん、皆を戻せ」と言い、事態を何とか収めた。
 住民はウァーラヌフールモー(第1玉砕場)と陣地東の谷間(第2玉砕場)に分かれ、戻っていった。「第2玉砕場」に向かった金城武徳は生き残った。そこでは既に「玉砕」は終わっていたからだ。
 ウァーラヌフールモーに戻った住民はどうなったか。陣中日誌は記す。
 「3月26日午後8時過ぎから敵弾激しく、住民の叫び声阿修羅の如(ごと)く陣地彼方(かなた)において自決し始めたる模様。(現場を確認したのは翌日)3月29日の豪雨。悪夢の如き様相が白日、眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したるもの約2百名(阿波連方面においても百数十名自決、後判明)。(中略)戦いとは言え、言葉に著し尽くし得ない情景であった」
 あまりにも残酷な描写だが、筆者の意図することは、「事実」の発掘なくして「真実」の発見はあり得ない、ということだ。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(6)

渡嘉敷島における沖縄戦犠牲者の御霊を祭る白玉の塔

渡嘉敷島における沖縄戦犠牲者の御霊を祭る白玉の塔

「パニックに陥る住民、玉砕の連絡が飛び交う」

 1944年2月22日、国勢調査によれば、村の人口は1447人であり、「数百人」とはその一部にすぎないことに注意しよう。
 古波蔵村長らの有力者会議が開かれ、「自決の他はない」と皆、賛成し自決が決められた。
 ある防衛隊員は「戦うために妻子を片づけよう」と言った。
 村の兵事主任、新城真順は前日掘ったばかりの北山陣地に行き、赤松嘉次隊長に「住民をどこに避難させたらよいか」と指示を仰いだ。赤松隊長は「陣地北側の盆地に避難させてはどうか」と言った。そこがウァーラヌフールモーだった。
 その後、恩納ガーラに防衛隊員がやって来て「赤松隊長の命令で村民は全員、直ちに北山のウァーラヌフールモーに集まれ」と語った。別の防衛隊員は「自決するから北山に集まれ」と言った。
 14歳の金城武徳は敵の上陸が始まると、部落内の防空壕を出て、神社の後ろを通って、父が恩納ガーラに造ってあった避難小屋を目指した。夜、土砂降りの中、食糧を置いてある恩納ガーラに伝令がやって来た。あっちこっちの避難小屋を巡り、「軍の命令で北山に避難せよ」と伝えた。
 16歳の小嶺勇夫はイチャジシ(恩納ガーラ)の避難小屋で生活を始めていたが、村の青年がやってきて「村長命令で上の本部に全員集合せよ」と言った。14歳の山城賢治はウビガーラから恩納ガーラに移動したが「明日あたり玉砕だ」という話を聞いた。30歳の小嶺国枝はイチャジシの避難小屋にいたが「玉砕するから北山に集まれ」との連絡を受けた。
 グリースガイ(死に装束)をしてウァーラヌフールモーに向かった。夜半から28日の明け方にかけて、数百人の老若男女が雨の中、恩納ガーラの上流から険しい傾斜面の道なき道を黙々と登って行った。
 ウァーラヌフールモーは北山の山頂すぐ北側にあり、馬の鞍(くら)のような形をしていて、長さ約30㍍、幅5・6㍍で北に突き出ていて、その両端は深さ3、4㍍ほどの溝を成し、その先は人が下りられないほどの深い渓谷が海に続いている。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(5)

「米軍が渡嘉敷上陸、避難壕に逃げ込む住民」

 渡嘉敷村史と沖縄県史10巻、陣中日誌からウァーラヌフールモーの惨劇を追ってみよう。
 3月23日午前10時ごろ。数十機の爆撃機が渡嘉敷上空に姿を見せた。住民も兵士もそれが米軍機だと気付くものはいない。突如、空襲が始まり、民家や陣地に爆弾と焼夷(しょうい)弾が落とされ、至る所で山火事が発生した。延べ300機の空襲は午後6時まで断続的に続き、島は大混乱に陥る。住民は麓など各地に用意していた避難壕(ごう)に逃げ込み、陸戦になじみのない第3戦隊の兵士らはわずかばかりの銃兵器で対空射撃を試みたが、この日戦死者11人、負傷者10人を出し、散々な日となった。これが沖縄戦の始まりとなった。
 3月26日。早朝、慶良間に集結した敵(ブランデー提督)の艦隊は慶良間各島に猛烈な艦砲射撃を加え、第77歩兵師団が慶留間、阿嘉、座間味の島々に上陸した。渡嘉敷島の大町大佐が島を脱出する機会は失われた。
 赤松戦隊長は出撃準備のため、夜明け前に舟艇を浜に出し、大町大佐に出撃命令を求めたが、大町大佐は「ここで手の内を晒(さら)せば、本島に船舶団の作戦に支障が出るので船を戻せ」と命令。だが、時既に遅く、敵の艦砲射撃が始まっている。
 赤松隊長は涙をのんで「自沈」を命令。こうして事態は島の全ての人々の予測を超えた方向へ進んでいった。
 27日。海上挺身戦隊とは、爆雷2個を搭載した舟艇で、夜間敵艦船に体当たり爆破する目的で編成された特攻隊のことだ。生きて帰ることはないはずだったが、特攻艇を自沈した今、にわかづくりの陸戦守備隊として島に立てこもることになった。
 午前2時、赤松戦隊長らは渡嘉敷村落の北の北山(にしやま)の周囲に守備陣地を敷くことになり、山道を上った。
 午前9時、アメリカ軍は艦砲射撃の下、留利加波、渡嘉志久、阿波連に上陸を開始。渡嘉志久を守備する第3中隊の残存部隊は抵抗したもののほとんど戦死。阿波連を守備する第1中隊は阿波連を撤退する時、アメリカ軍(A中隊)の待ち伏せに遭い、多数が死傷し、生き残った者は阿波連東の山中に四散することになった。
 一方、村の防衛召集兵(以下、防衛隊と呼ぶ)は3月23日の空襲以来、住民の避難や消火作戦でてんてこ舞いの忙しさだったが、前夜から「敵が上陸して危険だから恩納ガーラに移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(4)

「渡嘉敷島で聞き取り、赤松隊長への誤解解消へ」

 1995年の春と夏、渡嘉敷島を訪ね、「集団自決」の生き残りの人々や関係者から情報を集めた。自決を生き延びた金城武徳さんに自決現場に案内してもらった。そして、海上挺身第3戦隊の陣中日誌を金城さんから入手した。後に大城良平さん、比嘉(旧姓安里)喜順さん、知念朝睦さんらから貴重な情報を入手することができた。
 第3戦隊陣中日誌は、「3月27日。第1中隊は本隊に合流すべく阿波連を撤収、渡嘉志久高地に上陸せる敵に前進を阻止せられ、2、3度切り込み突破を行ふも前進不能となり!」と記録している。

 阿波連の集団自決については前記のように記録している。

 渡嘉敷では「恩納ガーラ」(ガーラは「河原」の意味)と阿波連の川の上流で二つの「集団自決」があったことになる。
 ところで「集団自決」という表現は『鉄の暴風』の執筆者の一人、伊佐良博氏が初めて使った、と後に証言し、戦時中は「玉砕」と使われていることに注意しよう。
 筆者は金城さんに渡嘉敷最北の山中の恩納ガーラへ案内してもらった。山頂の石碑のすぐ北に「自決現場」第1玉砕場があった。だが金城さんは、ここは恩納ガーラではなく、ウァーラヌフールモーと呼ばれているという。恩納ガーラは渡嘉敷村落のすぐ西側を流れる川の中流だったのだ。そこは深い谷間で空襲を避ける絶好の場所だった。この川岸に住民は避難小屋を造ったが、ここでは「集団自決」はなかったのだ。
 恩納ガーラの上流から険しい斜面を登り、北山(にしやま)を越え、ウァーラヌフールモーに達するのだが、現在、川にはダムができ、昔の面影はない。筆者は自分の思い込みに呆(あき)れたが、さらに驚いたことに、金城さんや大城さんらは「赤松隊長は悪人ではない。それどころか立派な人だった」と言うのだ。
 そこで北中城村に住む比嘉さんに会って聞くと「その通りです。世間の誤解を解いてください」と言う。
 知念さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘(うそ)の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙にして調査せねばならない、と決意した。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(3)

「米兵が記した惨劇、阿波連で100人以上が自決」

 グレン・シアレス伍長は、手記でこう綴(つづ)る。

 <1945年4月27日夜明け、俺たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で3人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。(中略)
 山を下りて「阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。その途中、小川に出くわした(阿波連のウフガー上流)。川は干上がり、幅10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて100人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦(ごうかん)され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。
 年配の男たちがちっちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にした大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。
 狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるので、こちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。
 医療班が駆け付け、全力を尽くして生き残った者を手当てしたが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。>

 この集団自決については一切表に出たことがなかった。だが、海上挺進第3戦隊陣中日誌は記す。

 <3月29日―悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したる者約200名(阿波連においても百数十名自決、後判明)。首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部(けいぶ)を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽くし得ない情景であった。>

 シアレス伍長の手記を見事に裏付けている。第3戦隊陣中日誌は後、詳しく紹介することにしよう。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(2)

「目撃した米兵の手記入手、名誉回復求め提訴」渡嘉敷島に就航するフェリー

 2005年8月4日、梅澤裕さんと故赤松嘉次さんの弟の秀一さんは、住民に「集団自決」を命じていないとして大阪地裁に「名誉回復」目的で訴訟を起こした。被告は『鉄の暴風』を編集した沖縄タイムスではなく、意外にも『沖縄ノート』の著者大江健三郎氏とその出版社、岩波書店だった。勝訴に自信満々だった原告弁護団はノーベル平和賞受賞作家の大江氏と大手出版社岩波をターゲットに選んだが、外部にいる者(筆者も含めて)からすれば、完全勝訴は間違いないはずだった。
 『沖縄ノート』は「集団自決」だけでなく、沖縄の左翼陣営の文化人にアレコレ聞いているだけで中身はほとんどないからだ。しかも、大江氏は『鉄の暴風』からの受け売りの知識をひけらかしているだけで、赤松戦隊長の名も出さず、“罪の巨塊”とか批判しているにすぎない。
 しかるに、「集団自決」の真相に迫る証拠資料や証人は数多く存在している。
 筆者は1985年、沖縄タイムス紙上でアメリカ第10軍のG2サマリーを中心にした『沖縄戦日記』を連載し、その中でニューヨーク・タイムズの報道する渡嘉敷島住民の“集団自決”を発表した。
 <神もおののく集団自決―3月29日発(英語ではMass suicide=集団自殺) 昨夜、我々第77師団の隊員は、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、その時1マイルほど離れた山地から恐ろしいうめき声が聞こえてきた。(中略)この世で目にした最も痛ましい光景だった。死亡者の中に6人の日本兵(※)がいた。――数人の生存者が一緒に食事をしているところに生き残りの日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵(※)に向かって激しい罵声を浴びせ殴りかかろうとした>
 筆者はこの時点では気付かなかったが、※印を付した「日本兵」とは実は武器弾薬を装着した防衛隊員である。このことを知ったのは、95年春と夏に、渡嘉敷島に渡って現地調査をした時だった。アメリカ兵には日本兵と防衛隊員の区別がつかなかったのだ。
 その前年の94年、筆者は戦後50周年に沖縄を訪れるアメリカ人遺族関係者を迎えるために「おきなわプラス50市民の会」を組織し、その移動の中で、慶良間諸島の慶留間(げるま)島と渡嘉敷島の「集団自決」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手した。それはハードボイルドでありながら、実に感動的で衝撃的なものだった。
 95年には翻訳しておらず、英文そのままだったことに注意しよう。筆者がシアレス伍長の手記を『沖縄戦ショウダウン』として発表したのは96年の6月だった。

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歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実(1)

「梅澤少佐の不明死」鉄の暴風

 人はよく「戦争とは醜いものだ」と言う。だが、筆者は、最も醜いはずの戦争に中に、最も美しい人間の物語を発見し、数々の沖縄戦の物語を伝えてきたが、現在につながる大切な物語の一つの終わりがまだ見えない。それは住民の“集団自殺”の真相だ。そもそも沖縄県慶良間諸島の「集団自決」が事の始まりだ。
 渡嘉敷島の第3戦隊長の赤松嘉次(よしつぐ)大尉と座間味島の第1戦隊長、梅澤裕(ゆたか)少佐の“玉砕命令”により「集団自決」が始まったとの風説は超ロングセラー『鉄の暴風』に起因する。
 1950年8月15日、沖縄タイムス編集、朝日新聞出版の『鉄の暴風―現地人による沖縄戦記』を発行した。初版2万部は驚くべき数字だが、第2章「悲劇の離島・集団自決」の稿を除けば、今でも参考にすべき戦記だということも驚きだ。
 この本によって赤松大尉と梅澤少佐は集団自決を命じた「極悪人」であることが「暴露」され、そのイメージが定着した。ところが70年、曽野綾子氏が赤松さんら第3戦隊の隊員らに取材し、現地調査を行い、『ある神話の背景』を著し、「赤松嘉次さんは集団自決を命じていない」と発表した。それでも、沖縄の人々が真実の言葉に耳を傾けることはなかった。
 『鉄の暴風』によると、伊佐(後に大田に改名)良博氏が執筆した「集団自決」の稿の最後に、座間味について「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」と記されている。「日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅澤少佐ごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの2人と不明死を遂げたことが判明した」と稿を閉じている。
 ところが、この記述は現在市販されている『鉄の暴風』から見事に削除されている。なぜか。それは、70年4月、東京タワーでアメリカ人牧師を人質に取り、言いたい放題の暴言を吐き、マスコミの人気者になった沖縄生まれの富村順一氏が梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけ、沖縄タイムス社に足を運び、それをネタにタイムスを脅迫して金銭を要求。まんまと50万円をせしめたからだ。これは有名な裏話だが、タイムスが語れない恥ずべき秘話となっている。
 「梅澤少佐ごときは2人の慰安婦と共に不明死を遂げた」との記述とその隠蔽(いんぺい)工作はまさに名誉棄損そのものだ。

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