琉球新報訴訟
上原正稔は2011年1月31日琉球新報に対し、憲法の表現の自由侵害と著作権侵害による損害賠償請求の訴状を那覇地方裁判所に提出した。これに対し、被告琉球新報側はどのように対処したら判らず、慌てふためいたらしく、裁判所から再三、どうするか促され、ようやく5月17日(火)から口頭弁論が始まった。その時、琉球新報社は反論書を提出した。(被告側反論の全容は近日発表する。)
琉球新報訴訟 控訴審判決 2013年7月29日
控訴審の判決は逆転勝訴となり、一審の判決が完全否定されました。判決文の全文を公開します。(4分割しています。)




琉球新報訴訟 控訴審第二回口頭弁論 2013年5月30日
福岡高等裁判所那覇支部に提出した口頭弁論資料です。
琉球新報訴訟 控訴審第一回口頭弁論 2013年4月18日
福岡高等裁判所那覇支部に提出した口頭弁論資料です。







琉球新報訴訟 控訴理由書 2013年1月23日
福岡高等裁判所那覇支部に提出した控訴理由書です。
訴 状
那覇地方裁判所に提出した琉球新報を訴える訴状は次の通りです。
提訴直後の各新聞メディアの反応
琉球新報、沖縄タイムス、世界日報の反応は次の通りです。
地元紙である琉球新報、沖縄タイムスは第1,2回の口頭弁論の時も上原正稔に取材をしているが、新聞では続報を一切発表していない。報道の自由を悪用した「報道しない自由」といったところだろう。
※報道しない自由とは「事実を捏造はしないが、取捨選択により、事実をつたえない、都合よく意味を変える、意味をずらす」ことである。報道しない自由についてはここを参照して下さい。
琉球新報訴訟 第一回口頭弁論 2011年5月17日
上原は初回口頭弁論で陳述の機会を得て、「なぜ琉球新報を訴えたか」と題する文書を読み上げた。その全文は次の通りです。
琉球新報社の第一回口頭弁論の答弁書と付属資料です。(例)答弁書で「乙2」や「乙2の1」と表記されているものは付属資料乙2号を参照して下さい。






琉球新報訴訟 第二回口頭弁論 2011年7月5日
7月5日(火)、二回目口頭弁論が開かれ、ここでも上原は「心ある友人の皆様へ」と題する陳述を行った。その全文は次の通りです。
琉球新報訴訟 第三回口頭弁論 2011年9月13日
今回は法廷で琉球新報と上原正稔との間に何があったのか内幕を晒した陳述を行った。その全文は次の通りです。


琉球新報訴訟 第四回口頭弁論 2011年11月8日
今回は法廷で「上原正稔が読者に伝えたかったことと琉球新報の言論封殺について」の陳述書を提出した。被告琉球新報社の弁護士は第3回口頭弁論より、上原の陳述を裁判にそぐわないと主張した。上原は弁護士の父親をよく知っており、「父親は正直な人だったが、 貴方は今度の裁判ではデタラメを書き、嘘を言っている。こんなことをしてはダメだよ。」とたしなめた。弁護士は上原の発言に恐れおののき、発言を封殺しようとしたが、裁判長は発言を許可した。その中で上原は10月に故赤松隊長のお墓参りをしてきたことを明かし、 「被告である貴方がたも一度は行くべきだ」と最後に一言付け加えた。琉球新報側の表情は一層暗くなったことは言うまでもない。提出した陳述書の全文は次の通りです。




※原告側証拠説明書には付属資料がありますが、膨大なページ数になるので省略します。ご了承下さい。
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琉球新報訴訟 第五回口頭弁論 2012年1月24日
被告である琉球新報社は原告の上原正稔が提出した膨大な原告側証拠説明書に対し、従来の答弁しかできなかった。つまり、第1回口頭弁論の答弁書と同様であった。

琉球新報社の第2及び第3準備書面です。


琉球新報訴訟 第六回口頭弁論 2012年3月13日
第六回分の資料をホームページに掲載するのに少し時間がかかります。大変申し訳ありません。琉球新報訴訟 第七回口頭弁論 2012年4月24日
またもや、従来と同様の答弁に徹する琉球新報
琉球新報訴訟 第八回口頭弁論 2012年6月19日
被告琉球新報側の証人前泊博盛が敵前逃亡を図りました。前泊は琉球新報を見放したのか、自己保身なのかその真意は本人のみぞ知る・・・








被告琉球新報側証拠申出書及び申出撤回書、証拠説明書、陳述書





琉球新報訴訟 第九回口頭弁論 2012年7月17日
琉球新報側の証人は最重要人である前泊博盛が敵前逃亡し、仕方なく当時の編集局次長の枝川、当時の編集委員である名城が証人尋問を受けた。琉球新報側は頑なに「重複掲載」を主張し続けていたが、徳永弁護士の追及によりその根拠は破綻したため、今度は引用部分が長すぎるという主張をした。しかし、この主張も徳永弁護士の追及により琉球新報側は引用の明確な基準は見い出せなかった。つまり、2007年当時、琉球新報は「集団自決は軍命」という大キャンペーンを展開していたから、上原の主張する「集団自決は軍命ではなかった」という内容の原稿は発表できなかったのである。このキャンペーンの煽りを受けたもう一人は星雅彦氏だった。過去に星氏自ら集団自決の当事者達に聞き取り調査をしており、2007年にそのことをまとめた原稿を琉球新報に出したが、その原稿内容も「集団自決は軍命ではなかった」という結論であったため、当時の文化部長がそれではまずいと思い、編集権を振りかざしてその原稿を修正したが、結局は掲載されなかった。しかも、琉球新報側はその星氏の原稿は氏が社に持ち込んだという嘘を法廷で主張した。星氏は琉球新報には一度も原稿を持ち込んだことはなく、琉球新報の依頼だった。つまり、星氏に依頼したその原稿の内容が大キャンペーンを展開している琉球新報にとってはまずいものだった。琉球新報は星氏の排除に動き、琉球新報で長年受け持っていた美術評論を降ろした。
法廷の様子は狼魔人日記の7月18~20、23日にまとめられているので、そこをご覧頂きたい。
当の前泊は、沖縄の基地問題の専門家づらしてメディアに出演するのに忙しいらしい。(自らの問題は・・・)
琉球新報訴訟第十回最終口頭弁論 2012年9月18日
今回の最終口頭弁論を傍聴した方は丁々発止の法廷劇を期待していたかもしれないが、わずか数分であっけなく終了し拍子抜けしまったことだろう。でもそれが現実の裁判なのでご了承いただきたい。琉球新報は前回の証人尋問で最重要証人だった前泊博盛が敵前逃亡し、身代わりに証言台に立った枝川が「二重掲載」を主張したが、原告側の徳永弁護士の反論にあって「 二重掲載」という根拠を失ったにもかかわらず、再度「二重掲載」であると今回提出した準備書面で主張している。それこそ二重掲載である。(笑)
原告側準備書面は3分割しています。





琉球新報訴訟 判決 2012年11月20日
判決は敗訴となりました。しかし、納得のいく判決内容ではありませんので、控訴するつもりです。判決文の全文を公開します。(3分割しています。)



鉄の暴風「集団自決」の記述について
全ての問題はこの沖縄タイムスの伊佐良博(後に太田に改名)が記した「鉄の暴風」から、慶良間の集団自決の物語が始まった。その部分は次の通りです。
慰霊祭で赤松元大尉の来沖を大騒ぎする地元新聞社
1970(昭和45)年3月28日に渡嘉敷村で行われる二十五周年忌慰霊祭に参列のため26日に来沖し29日に帰郷した赤松元大尉を報ずる地元新聞を時系列で紹介する。被告琉球新報と原告上原正稔の裁判の全容は包み隠さず、このホームページでご覧になれるようにします。