沖縄タイムス

1970(昭和45)年3月27日金曜日

“忘れられぬ戦争の悪夢”
空港に“怒りの声”
責任追及にうなだれる
 沖縄戦当時、海軍大尉として渡嘉敷島駐留の日本軍をひきいていた兵庫県・加古川市の赤松嘉次氏(50)=当時特幹船舶隊長=ら生き残りの旧軍人、遺族十数人が二十六日午後五時すぎ大阪から来島した。二十八日渡嘉敷島で行われる「二十五周年忌慰霊祭」に参拝するためだが、渡嘉敷島の戦闘は住民三百人余りが集団自決に追いやられたことで沖縄戦の中でも最も悲惨な戦闘として知られ、集団自決に追い込む状況をつくったといわれる赤松隊に対して戦後、住民の間から強い批判と怒りの声があがっていた。それだけに、こんどの赤松氏らの来島は各方面に反響をまきおこしている。この日、空港に到着したときも「来島拒否」を叫ぶ民主団体の抗議団約四十人が赤松氏を取り囲み、当時の責任を問いつめるなど、早くも抗議行動が現われ、今後、「戦争責任」の問題にからんで波紋は広がりそう。

赤松元海軍大尉が来島 ※紙上では「元海軍」と表記されていたが、実際は「元陸軍」の誤り
 午後五時五分の日航機で到着した赤松氏は黒のレーンコートに身を包みショルダーバックと清酒一本を下げた軽いいでたちだったが、タラップを降りて空港建て物の入口に来ると民主団体の群がる抗議団にけげんそうな表情をみせた。入域手続きを終えて空港玄関前に現われると、約四十人の抗議団はいっせいに「赤松帰れ」「今ごろ沖縄に来て何になる」「県民に謝罪しろ」と口々に叫び、赤松氏の服をわしづかみにして抗議団の中に引き込み当時の状況について問いただした。
 その間に、赤松氏といっしょに来島した十数人の人たちは、準備されたマイクロバスに乗り込んでさっと空港外に出たが、赤松氏は直立不動のまま抗議の声を受けた。
 那覇職労の山田義時氏が前に進み出て「渡嘉敷島の集団自決と虐殺の責任者赤松元陸軍大尉の来県に抗議する」と抗議文を読みあげる間、じっと一点を見つめたままで余り語ろうとしなかったが、抗議団から「三百人の住民を死においやつた責任はどうする」「罪のない住民をスパイ容疑で斬殺したのにオメオメと来島できるのか」といわれると、「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった。捕虜になった住民に死刑を言いわたした覚えもない」とやっと口を開いた。
 終始こわばった表情で動揺の色もみえたが、事実関係については一貫して否認した。
 抗議団の「伊江島の青年が降伏勧告に来たとき殺せと命令したではないか」と問いつめたとき、はじめて「確かに命令した。三人だった」と認めた。抗議団がなおも激しく追及すると「ああいう状況下ではやむを得ない面もあった。慰霊祭でそういう人たちも含めて亡くなった人のめい福を祈りたい」と沈うつな表情。「慰霊祭には出てもらいたくない。あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れ去ったものとしか思えない。現在の日本の右傾化を見ろ」という声に「私のところは平和だし、私が来島したからといって…」と言いかけたまま口は重く閉ざされた。
 時ならぬ抗議の声に空港にきた人たちも赤松氏の周辺に集まった。最後に、「明日にでも帰ってくれ」という抗議団の声に「今晩じっくり考えさせて下さい」と赤松氏は答え、シュプレヒコールを背に空港を去ったのが約一時間後だった。赤松氏は二十七日南部戦跡を回る予定。

“非難したくない”
出迎えの玉井村長語る
 赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村町は「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。赤松氏をよぶかどうかについては村内でも再三討論したが、戦闘で亡くなった人たちの冥福を祈りたいという純粋な気持ちなので、私たちも過去のことを深く考えないようにして迎えることにした。赤松氏に対する怒りの気持ちが村民にないわけでもないが、ああいう状況の中ですべてを個人の責任として非難するものもいけないのではないかと思う。この問題はあまり触れなくてもいいと思う」と語った。

渡嘉敷島戦闘の概略
 赤松氏は、サイパンの玉砕で戦況が悪化した昭和十九年、渡嘉敷島に兵員百三十人、特攻艇百隻をもってほとんどが、米軍の沖縄攻略のさい赤松隊長が渡嘉敷村民二千人余に集団自決を命令、そのうち二百九十余人を死にいたらしめたと伝えられている。一九五三年三月二十八日、渡嘉敷村遺族会がまとめた「渡嘉敷島戦闘の概要」は集団自決の日、昭和二十年三月二十八日の状況をつぎのように記録している。
 「午前十時ごろ住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地に集まったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二~三百メートルの高地に陣地を構え、完全に包囲体制を整え、迫撃砲を持って赤松陣地に迫り、住民の終結場も砲撃を受けるにいたった。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり、ことここに至ってはいかんともしがたく、全住民は陛下のバンザイと皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめらた手留弾おのおの二個が唯一の頼りとなった…」。
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えぐり出される傷痕 渡嘉敷島
 いまわしい沖縄戦の終えんから二十五年、戦争のツメ跡はしだいにうすれつつある。日本軍部の犠牲となって多くの肉親を失った沖縄県民の悲劇も“触れられたくない傷痕”として記憶のかなたへ押しやられようとしている。赤松善氏のこんどの来島は、この傷痕をいまいちどえぐり出し、戦争責任追及への論議を巻き起こすこととなった。「戦争遂行のため止むを得なかった。しかし村民に恥ずるようなことは何もしていない」という赤松氏。「個人的に非難はしたくないが、戦争の悲惨さは忘れてはならない。赤松大尉がいま何をどう感じて渡嘉敷島をたずねようとしているのかが問題だ」と指摘する首里教会の金城重明牧師。金城牧師は当時十六歳の少年。集団自決の阿鼻叫喚の中で母親をはじめ兄弟たちの生命をたったという。赤松氏がどのような気持ちで沖縄を訪れたのか、そして、地元の関係者はどのような気持ちで赤松氏の来島を受け止めているか-沖縄に住むものとして「戦争」というものを考えるとき、このことに無関心ではいられない。赤松氏と金城牧師の話を聞いてみた。

 “大半は事実に反する”
 自決を命じた覚えはない

 赤松氏との一問一答
 -渡嘉敷島に駐屯中に村民に集団自決を命じたということだが…
 赤松氏 事実と反する。軍は集団自決の二日前に友軍の陣地近くに村民を集結させたことはたしかだが、それはあぶないと思ったからだ。しかしその後のことは知らない。集団自決のあった翌朝になって、その事実を知った。
 -生存している当時の村の指導者は、赤松隊長が防衛隊員を通じて自決を命じたと語っているのだ。
 赤松氏 私が記憶しているかぎりでは、当時の村の指導者の中に病に倒れて足手まといになるのがいるので、万一の場合使うので武器を貸してくれといってきたが、隊の方で自決を命じたことは絶対にない。
 -集団自決をはじめ、多くの村民が死んだが、責任者であるあなたは壕の中にかくれて死をまぬがれたといわれているが。
 赤松氏 それも違う。陣地を築いたが、その場所に壕はなかった。かくれていたなどというのは違う。
 -すべて事実と違うというが、いずれにしても多くの村民の生命が失われた。当時の責任者としてどう思うか。
 赤松氏 申し訳ないとおもう。心からおわびしたい。しかし、あの状況ではせいいっぱいだった。兵員は三百人足らず、武器も小銃が三十丁しかなかった。島を死守するという隊の任務があり、どうしようもなかった。
 -伊江、村民を始め村民十数人をスパイの容疑で斬殺したというのは-。
 赤松氏 きったことはないが、スパイの死刑を命じたことは事実だ。十数人というのは違う。私が覚えているのは三人だ。
 -さいごは村民のわずかな食糧まで奪い、村民を餓死に追いやったといわれているが。
 赤松氏 私の知らないことだ。隊と村民の糧秣は別々にしていたが、奪うということはなかった。隊では村民の糧秣が不足すれば隊のものを分けてやれということを決めたくらいだから。
 -スパイ事件の一部を除けば村の生残者の話と全部違うが、生残者の言うのは全部誤りなのか。
 赤松氏 なぜそうなったかわからない、私は責任者として隊に属し、村民は村民としての立場が違う。ひとつの事実についても見方が違うことはじゅうぶん考えられる。はっきりいえることは村民の集団自決命令をだしたことはないということだ。米軍の捕虜になってから村に戻ってきた青年に捕虜になるくらいなら自決せよといったことはあるが、そのほかにはない。
 -先に週刊誌に発表された赤松隊長の手記に対して当時の村長は全部虚偽のことを書いていると反ばくしているがどう思うか。
 赤松氏 理解できない、当時村長は、私のところに武器を借りにきた。私から集団自決うんぬんをいった覚えはない。
 -隊長の命令ではなく、村民が自ら選んだことだということになるが-。
 赤松氏 私にはそうとしか理解のしようがない。
 -こんどの来島の目的は。
 赤松氏 二十五周年忌にもなるし、村長や当時の部下たちの招きもあり、慰霊祭に参列して戦死者の霊を慰めたい、と思った。
 -これまで沖縄訪問を考えたことは。
 赤松氏 ずっと考えていた。しかし、なかなか機会がなく果たせなかった。
 -抗議団の抗議を受けてどう思うか。
 赤松氏 事実もあれば事実でないこともあるが、大部分は私のぜんぜん知らないことで、なぜこんな抗議をうけるのか私にはわからない。

 “個人的批判はしない”
 厳しく問いたい戦争責任

 金城牧師との一問一答
 -当時の状況はどうだったか。
 金城牧師 私は当時十六歳だったが、当時の状況はよく覚えている。しかし、あくまでも自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。
 -赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。
 金城牧師 直接命令をくだしたかどうかはっきりしない。防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間に生きることへの不安がウズ巻いていた。つまり敵につかまったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。そして戦況も、いつ玉砕するかというところに少なくとも民間人は追い込まれていた。
 -自決命令についてはどう思うか。
 金城牧師 私の感じでは、離島にあって、食料にも限度があったし、民間人が早くいなくなればいいという考えが軍にあったように思う。しきりにそうしたことがささやかれ、村民の中では、軍の足手まといになるようり自決して戦いやすくしたら…ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこでつながったか、あるいはつながりはなかったのか、はっきりしない。
 -自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令か。
 金城牧師 私たち家族は阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるので北部に移らなければならないということがいわれていた。事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。二日がかりで西山盆地に着いた。
 -村民の集結から自決までの間は不明だが。
 金城牧師 集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに死に対する一種の“陶酔”が充満していた。軍部も、すでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し自分も死ぬという集団自決が始まった。いまにして思えば、まったくの異常心理としかいいようがないが、とにかく、あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだった。私自身、母親や兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切り込んでやれということで米軍の方に向かった。しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕の中にたてこもっているのをみてなにか悪夢から覚めたような気持ちになった。この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきりいって、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵がさいごまで生き残ったのも渡嘉敷だった。
 -赤松大尉のこんどの来島をどう思うか。
 金城牧師 私の立場からすれば、赤松大尉個人を批判するつもりはない。しいていえば、天皇のために死ぬとう皇軍主義教育が極端にあらわれたのが渡嘉敷の悲劇で、赤松大尉が何の目的で来たのかわからないので何ともいえない。しかし悲劇の島、渡嘉敷をしっかりと確かめ、戦争は二度といやだとうことになれば意味があると思う。当時の責任者としてこんご平和のための証人としてやっていく気持ちがあれば……ということだった。私が聖職についた直接の動機はこの集団自決事件だ。私は自らの肉親の生命を断ったが、なぜ戦争に責任のない肉親たち、村民たちがあんな死に方をしなければならなかったのかという疑問を解くために、そして私はいま渡嘉敷の生き残りとして平和を守ることに務めている。
 -戦争の傷跡を忘れたいということか。
 金城牧師 戦争の傷跡というのも、ただ被害者意識だけでいつまでも思い悩んでいては意味がない。済んだことは済んだこととして、大事なことは過去が現在にどう生きているかとうことだ。その意味では私は戦争はぜったいに許せない。赤松大尉にも、渡嘉敷の責任者だった人として、いま何をどう感じているのかその戦争責任をきびしく問いたい。
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1970(昭和45)年3月28日土曜日

赤松氏、姿見せず
渡嘉敷島の慰霊祭 港に阻止団
 渡嘉敷村遺族会(玉井喜八会長)主催で二十八日正午から渡嘉敷村渡嘉敷の「白玉之塔」で行われる戦没者合同慰霊祭に参列する本土から来た生き残りの旧軍人十四人とその家族三人、玉井村長、一般客などを乗せたけらま丸(一五二トン)は出港予定時間より一時間遅れ、二十八日午前十時、泊北岸から渡嘉敷向け出港した。しかし問題の人・赤松元大尉は姿を見せなかった。
 港には午前八時ごろから赤松氏の慰霊祭参列を阻止しようと渡嘉敷村郷友会青年部をはじめ、沖縄キリスト教会、原水協など六団体約四十人がかけつけ、「虐殺者赤松を許すな、二重の罪をあばき慰霊祭参加を阻止せよ」と書いた張り紙を掲げ、異様なふんい気をただよわせていた。
 出港時間の九時をすぎ、十五分後に生き残りの人たちがバスで港に着くと、阻止団はただちに赤松元隊長がいないかどうかチェックした。しかし、赤松氏だけは乗っていなかった。中のひとりが赤松氏とまちがえられ、ひともめする場面もあった。また、非常事態を警戒した那覇署から私服刑事や制服警官が待機していた。
 当時、赤松隊長の部下だった木村幸雄さん(四五)は「復員当時から亡くなった人や戦友、渡嘉敷村の人たちにお礼をするのが私の念願だった。赤松さんのことでどんな騒ぎがあってもお礼を言ってきたい」と話していた。生き残りの軍人たちは沈うつなおももちで渡嘉敷村へ向かった。
 “けらま丸”が出港したあと阻止団は「赤松が乗っていないことは抗議行動の成果だ」と叫んだ。「赤松の来島反対」「玉井村長の反県民的な行動に抗議する」とシュプレヒコール、十時すぎ解散した。
 赤松氏は、この日朝、迎えにきた沖縄の人たちにともなわれて、那覇市松下町の宿舎を出払った。旅館の人の話によると、同宿の元隊員、遺族の人たちに「自分は渡嘉敷に行けないだろう」と語っていたという。
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1970(昭和45)年3月29日日曜日

軌跡
 沖縄戦当時、渡嘉敷島守備についてはいたが赤松嘉次(元特幹船舶隊長)大尉が、二十五年ぶりに、沖縄を訪問したことで民主団体の間から批判の声がまき起こり、戦争責任を問われるかたちとなった。
 赤松氏は、渡嘉敷島にアメリカ軍が上陸するにおよんで、非戦闘員の同島住民約三百人を凄惨な集団自決に追いこんだ責任者として、非難のマトとなった(戦記・「鉄の暴風」)。赤松氏は、渡嘉敷村当局から招かれての来島である。戦後はおわったといわれる、きょうこのごろの本土の空気の中にあって、つい慰霊祭にのぞみ、死者の霊を慰めてやりたい気持ちになったからであろう。
 玉井村長もいうとおり“余り非難したくない”という寛大な考え方ももある。しかし、問題は空港で怒りの声をきこうとは思ってもみなかったのではないかという赤松氏や本土の錯誤と戦後の風化さようである。死者は裁く権利があった。 (饒)
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社説

戦争の傷痕
赤松元隊長への抗議
 沖縄戦当時、渡嘉敷島(渡嘉敷村)の守備にあたっていた、元陸軍海上挺身隊第三戦隊生き残りの赤松嘉次氏(当時、大尉で戦隊長)が、渡嘉敷村の合同慰霊祭に参列するため二十六日那覇に着いた時、空港で革新団体の激しい抗議にあっている。
 渡嘉敷島の戦闘は、住民三百人をまき添えにし、三百人余りが集団自決をしたことで悲惨な事件として余りにも有名である。赤松氏は当時(昭和二十年三月二十八日)のことを、「大半は事実に反する」とのべている。すなわち、革新団体の抗議団は、三百人の住民の死に追いやった責任をとれといって抗議を行っているのに対して赤松氏は、せめて慰霊祭に出席、回向(えこう)をしたかったと、その心境をかたっていることから、これほど激しい抗議に出あうとは考えなかったと想像する。
 一方、赤松氏を慰霊祭に招いた渡嘉敷村(玉井喜八村長)では、かねてから同氏が慰霊祭に出席したい、という連絡が再三あったので来てもらったが、あの悲惨な事件を赤松氏の責任に帰し、個人を非難はしたくないという寛容な態度をとっている。
 渡嘉敷村遺族会がまとめて記録として残っている「渡嘉敷島戦闘の概要」にある、「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」というくだりや、沖縄戦記“鉄の暴風”にある渡嘉敷島の戦闘記録には、たしかにそうなっている。赤松氏自身の記憶では、これが事実でないことを挙げていることも事件の真相を暗くしている。
 果たして島民生き残りの体験に基づく記録がウソか、赤松氏のいう「大半は事実に反する」が正しいか究明することは大切だが、他日にゆずるとして、ではなぜ、戦後二十五年も経過している今日、再び戦争責任を問う形で、この問題がクローズアップされなければならないか。そこに沖縄の置かれている深刻な姿の反映をみる思いがするのである。
 ひめゆり部隊の戦死をめぐって、かつて評論家の大宅壮一氏は“訓致された住民”という表現で、この悲劇をとらえられたことが、当時論議のマトになったことがある。
 渡嘉敷島の戦闘で肉身同士が殺し合いを演じた、いわゆる集団自決に追い込んでいった背景を探ることは今では想像を絶する。その犠牲者のひとりである金城牧師は「個人的批判は控えたいが、村民の間に一種の陥酔が充満、肉身も殺し、自分も死ぬという異常なふん囲気があった」といっている。
 抗議団の「慰霊祭には出てもらいたくない」という訪問に対し、赤松氏は「私のところは平和だし、私が来島したからと言って」と、さも訪問を不当のように受け取っているあたりに問題はないか。
 つまり、当時の守備隊長だった赤松氏が来訪するという一事が、なぜこのような波紋を投じ、また、赤松氏がそれを予知しなかったかという点に、本土と沖縄の立場のちがいがあるのではないか。
 赤松氏は、戦後二十五年も経過している今日、戦争は悪夢にしかすぎず、自分も含め渡嘉敷島民も、いわば戦争の犠牲者にすぎぬ。それをいまさら個人に戦争責任を問うたところでなんになろうといった、割り切った考え方があったかもしれぬ。ところが、来てみて接した沖縄の現実はまるで、予想に反して外に厳しい空気である。赤松氏の戸惑う気持ちもわからぬではない。ただ、同じ戦争でも、当時の状況から推して赤松氏は軍隊に所属し、一般は被支配者の順位にあった。戦争が人間性を抹殺するものであれば、あるいは渡嘉敷島のような孤島で弾薬・食糧がつきて敵の包囲下に晒されれば、記録に残されたことがら(事件)は容易に起こり得るはずである。
 わたくしたちはこの問題を冷静にながめると同時にお客としてやってきた元軍人の赤松氏が、たちまち二十五年前の軍人・赤松大尉に早変わりして一身に抗議の声を浴びる結果になった事実に目をつぶってはなるまい。この一事は、沖縄は、未だ戦後の域を完全に脱していない証拠といえるのではないか。
 ところが、戦争の傷痕は、こうした些細なできごとによって、再びえぐり出される。ことに、戦後処理として、沖縄が長い年月アメリカの統治に服さなければならなかった原因をたどればそれは戦争であった。沖縄がまともな復帰をとげるまでは、まだ戦後処理の途中にあるという考え方も成り立つわけで、赤松氏は不幸にも、身をもってそのことを例証する役目を背負い込んだ不幸な人間といえそうである。
 太平洋戦争で、沖縄住民はあらゆる辛酸をなめ、かつ大きな犠牲を払った。ところが、現実は、アメリカ軍の巨大基地としての使命を背負わされている。これは住民の意思とは無関係に選ばれた帰結である。そこへもってきて、復帰問題は防衛論とからんで、沖縄が、日・米交渉の道具にされている事実を住民は深い疑惑の目でながめている。
 もはや戦争は終わったという本土が、高度経済成長下に再軍備への傾倒をみせていることは疑問の余地がないという本土と、沖縄の激しい落差はますますひろがるばかりである。
 敗戦から二十五年も経過しているとはいえ、あの醜い戦争を体験した者にとって、戦争がどんなに非人道的で、悪逆無道なことであるかは十分すぎるほどわかっている。戦争は、時に人間を獣性に変えることは、アウシュビッツや、最近では、ソンミ大虐殺事件に引き合いに出すまでもなく、人類にとって最大の悪にかわりはない。しかし、戦争は、時にエゴイズムに支えられた大国の強大を誇る武力に物をいわせるため、あるいは、狭量なナショナリズムや、国家間の利害得失の均衡が破られた時に発生する。数多くの極地戦争も、また人類を滅亡させる押しボタン戦争の脅威から寸時とて解放されないわたくしたちにとって、戦争の生む非人間的行為は、憎んでも憎みたりないことである。
 赤松大尉個人の行為が、たとえ当時の事実と反するものであったとしても、“平和”に生きようとする者にとっては問題であり、また問題にしなければならない。
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1970(昭和45)年3月30日月曜日

“自決命令はくださなかっただが責任は私に
 渡嘉敷村の戦没者慰霊祭のために来島した赤松嘉次氏(元同島駐屯海上挺身隊隊長・元陸軍大尉)は二十九日午後五時五十分那覇発の日航機で大阪へ帰ったが、それよりさきに同日午後三時、宿舎の大文閣で記者団と会った。赤松氏は渡嘉敷島の集団自決事件などについて、「私の知らなかったことが大部分だが、自決事件を含めすべて隊長であった私に責任があると考える」と語った。しかし島に伝えられる自決命令については「私の知らないことだ」と否定し「当時の事情について細かい事情を明かせば、村の中に余計な波紋を投げることになるので、明らかにすることはさけたい」と語り、沖縄戦史のひとコマに残る疑惑はついに解明できなかった。

 赤松氏の出発前、那覇空港に沖縄教職員の代表がおしかけ、赤松氏の即時退島を要求する声明を手渡そうとしたが、警備の那覇警察署員が中にはいったため果たせなかった。抗議団は飛行機のタラップ近くまで迫ったが、赤松氏は警官に守られて機内に消えた。

 赤松氏の話 私に対する抗議の内容は、私の知らないことが大部分だが、いくつかの不詳事件については責任者である私が責めを負うのは当然だし、遺族や島の方々に心からおわびしたいと思う。いろいろ事情があって渡嘉敷島に渡れなかったが、私としては自分の口からおわびとお世話になったお礼をいいたかった。私は自決命令は下さなかった。それでは真相はどうだったかといわれると、あれこれいうことは住民の中に新たな被害者を出す結果になる。村の人たちはじゅうぶん理解していると思う。私は自決をきいて早まったことをしたと怒ったほどだ。また隊は陣地の中にいたといわれているが、艦砲を避けてはいった山で陣地、壕などあるはずがない。糧まつの強奪なども事実ではない。島の悲劇をつくった原因は、わずかな兵員と村民が小島の中で米軍の猛攻を受け、硬直状態に追い込まれたことだ。
 当時の島の責任者としてあの惨劇を目のあたりにしたもののひとりとして戦争は二度とあってはならないと思う。私どもの来島が日本の再軍備体制につながるという人もいるようだが、私の気持ちは反対だ。再びああいうことがあってはならないと祈るからこそ沖縄を訪れたのだ。いろんなことを書かれているが、当時の責任者としてただのおわびしたいということだけで、抗議に対していちいち細かい事実をあげて反論する気持ちはない。
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25年目合同慰霊祭 渡嘉敷の表情
過去は忘れたいみんなが戦争否定を
 太平洋戦争末期、村民三百九十四人が集団自決、悲劇の島として知られている渡嘉敷村は、いまにわかに戦争責任の論議で脚光をあびている。村遺族会では二十八日、戦没者の二十五回忌合同慰霊祭をとり行ったが、これに参列するため、当時同島に駐留していた陸軍海上挺身隊隊長赤松嘉次氏(五〇)ほか生き残り将兵十五人が来島した。赤松隊長は反戦団体の阻止にあって、ついに渡嘉敷島に渡ることを断念したが、谷本小次郎(四四)ら生き残り将兵十三人と遺族三人は合同慰霊祭に参列した。この生き残り将兵を迎える村民の表情をとらえてみた。

戦いの跡とどめず
 那覇から十八マイルの海を、村遺族会のチャーター船「けらま丸」(一五一トン)で那覇在住の遺族や生き残り将兵らは慰霊祭の当日二十八日正午まえに渡嘉敷港にはいった。港内にはるとすぐ右手赤間山麓に戦没者を祀る慰霊塔がみえたが、米軍の艦砲で焼き払われたといわれる赤間山、南の阿良利山など、いまはうっそうと木がおい茂り戦争の跡をとどめるものはどこにも見当たらない。港から赤間山(海抜二三四・三メートル)山頂、昨年末まで米軍ナイキホーク部隊が駐留していた米軍基地にのびる幅員四メートルのアスファルト道路が緑の山間をぬってのびているのが印象的。

参列者を暖かく迎える
 けらま丸を迎えて白玉之塔で合同慰霊が始まったのが同日午後二時すぎ。沖縄県護国神社の三好宮司の手で、ノリト奏上、玉串奉奠と、しめやかなうちに慰霊祭がとり行われたが、参列した村民およそ二百人は終始無言のまま。この日はとくに赤松隊生き残り将兵が参列するとあって、出迎えた村民の顔にはいくぶんの緊張が感じられたが、伝えられている。“赤松隊の暴虐”に対する怒りらしいものはなにひとつ感じられず、五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵らと手をとりあっていた。炊事班にかり出された赤松隊で働いていたという婦人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりましたと涙を流さんばかり。生き残り将兵たちも当時行動をともにしたという村民をひとりびとりつかまえ、あちこちで戦争中の昔話に花を咲かせる様子からは、赤松隊の“暴虐”を思わせるものはなにひとつない。夜は、生き残り将兵らは部落の知人の家へそれぞれ散らばり昔をしのんだあと、村役所ホールで開かれた遺族会主催の歓迎会に臨み、和気あいあいのふんいきだった。

老農夫の述懐
 車で約二十分のけわしい山道を越えると、阿波連部落。ここは渡嘉敷でも真っ先に米軍に占領され南の赤間山に移動した村民二百人近が集団自決に追い込まれたところ。しかし、ここでも当時の日本軍に対する非難めいた声は聞かれなかった。七十近い古老は、「当時、防衛隊にて負傷、友軍の陣地の中にいたが村民にひどい仕打ちがあったとは考えられない。集団自決のことはその日のうちに陣地の中にいる私どもにもわかったが、軍の方では生き残りに応急手当を加えるなどひじょうによくやってくれたと思う」と、伝えられている日本軍の暴虐とはまるで反対の話。
 また、当時、集団自決に加わったが手投げ弾が不発で生き残ったという老農夫(七四)は、「とにかくひどいものだった。村民の悲惨さは言葉につくせないが軍の仕打ちがどうこういうつもりはない。ただ村愛が混乱状態で座間味に本部を置いていた座間味からの命令もじゅうぶん届かないといったありさまで、いまから考えて、いちばんの誤りは村民があんなふうに一カ所に集まったことだといえるだろう。私は助かったが、こども二人は母親といっしょにあの時に死んだ」と語っていた。

必要なかった自決命令
 狭いところに村民が一カ所に集まったのが誤りだった-という当時の状況を説明する老人の言葉は、実際に足で島をまわってみて、実感として理解できるような感じがした。渡嘉敷から阿波連へ通じる道は二百メートル近くもあろうかと思われる絶壁の上を、雨模様の闇の中に白くかすんでいた。真下に岩を噛む波の音がはるかに遠い。身のすくむような隔絶間-。米軍はその周囲の海をじゅうたんのようにおびただしい艦船で敷きつめたという。集中的な艦砲射撃に追われ、村民たちは赤間山に閉じこめられ遂に動きがとれなくなってしまった。混乱と絶望感の中で、最初の自決の手りゅう弾がにぶい音をひびかせた。集団をとりまく異常心理が黒く渦巻き、高まり、手りゅう弾の音が連鎖反応のようにつぎつぎと起こった。
 それに軍が上陸戦に不なれなため村民の指導、保護にじゅうぶん手がまわらなかったことが混乱にわをかけた、と村民たちは説明する。そして、「あの状況では、自決命令の必要はもうなかった」というのである。
 村民は「ただ過ぎたことはいまさら掘りかえしてもしかたがない。われわれ村民がいま言いたいことは、赤松隊長をはじめ生き残り将兵、遺族ともに戦争の悲惨さを目のあたりに見てきたものであり、この慰霊祭にみんなが顔を合わせる戦争を二度とやってはいけいという誓いを新たにしていきたいということだけ…」と強調していた。
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