琉球新報

1970(昭和45)年3月27日金曜日

“集団自決 命令しなかった”
赤松元大尉が来沖
抗議に青ざめる
民主団体空港で激しい詰問
 「赤松帰れ」「人殺し帰れ」-。旅客機のタラップから降りて来る人に向かって激しい抗議のシュプレヒコールがあびせられた。太平洋戦争末期、渡嘉敷島民に集団自決をしいて沖縄県民から激し憎しみを買っている赤松嘉次元大尉が、二十五年ぶりに二十六日来沖したのに対して、平和を守る沖縄キリスト者の会など数団体が行なった抗議の声だ。抗議団に取り囲まれた赤松氏は、青ざめた顔で「集団自決は私が命令したものではない」とか「スパイ容疑の少年を殺したのではない」「いまはなんともいえない」など話していたが「あやまれ」の抗議に「申しわけありません」と頭を下げたが「抗議に驚いている」と抗議の意味がピンとこないようす。なおも痛烈な質問と非難の声が続いたが、赤松氏は迎えに来た渡嘉敷村民にひっぱられてその場をのがれた。抗議団は彼の来沖だけでなく、反戦平和の行動についてもっともっと考え行動していきたいとしている。この動きに警本機動隊約五十人も出動、抗議団を遠まきに見守っていた。
 赤松氏が同日午後五時すき着いた飛行機のタラップを降り、入域手続き所までカメラマンに囲まれながら歩いているとき、空港エプロンに陣取った抗議団は「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者赤松来県反対」の横断幕をエプロンにはりつけて「赤松帰れ」「人殺し帰れ」などシュプレヒコールで抗議した。赤松氏は口を真一文字にしめて青ざめている。税関手続きが終わって空港玄関に出てきたところへ、抗議団が先まわりして待ち構え「なにしに来たか」「帰れ」「おまえは沖縄人をなん人殺したんだ」と口々に叫んで赤松氏を取り囲んだ。
 抗議団(平和を守る沖縄キリスト者の会、歴史・社会料教育者協議会、日本原水爆禁止協議会沖縄県支部、日本平和委員会沖縄県支部、日本科学者協議会沖縄県支部)は取り囲んだ赤松氏に向かって「渡嘉敷島の集団自決と虐殺の責任者赤松元陸軍大尉の来県に抗議し広く県民に訴える」抗議文を読み上げた。赤松氏は目を閉じて神妙に聞き入っている。抗議文が手渡されたあと激しい詰問が飛んだ。
 「何しに来たんだよ-」の声に「二十五年にもなり英霊をとむらいに来ました」。「とむらってなんになるんだ」と別の声が重なってよく聞きとれない。怒号のうずだ。「集団自決を命令しなかったというが、それはちがうと村の人たちはいっている、どうか」「申したくありません」「いえない理由は-」「すべての戦史に載っている通りです」(チャンといえ。なんだその開き直った態度は-の一ヤジが飛ぶ)。「沖縄の人たちが自決したのは事実だ。自決を命令したあなたが生きているのも事実だ。それはいったい何か」と鋭い質間に赤松氏も絶句。沈黙する頭の上でジェット機がごう音をひびかせて次がら次へと飛んでいく。
 「要するにあなたが来沖することは帝国主義につながるんだ。渡嘉敷のあるおばあさんは、赤松が来たら発狂するから来てくれるなといっているんだ。帰れ」の声に「一晩考えさせてください」と答えるのみ。「なぜあやまらんのか」の非難が飛んだが、迎えに来た渡嘉敷村の人に連れ去られて去っていった。
 赤松氏は「前からぜひ来沖したいと考えていたが、こんどは渡嘉敷村から招かれたこともあって来沖した」という。抗議団はこうした渡嘉敷村の「集団虐殺事件」に対する態度の急変にも警告を発している。
 赤松氏は、二十七日南部戦跡へ参拝したあと、二十八日朝渡嘉敷へ向かい、二十八日の慰霊祭に参列、二十九日帰阪の予定。
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1970(昭和45)年3月28日土曜日

きょう慰霊祭
渡嘉敷村“集団自決”論議再び
 渡嘉敷島で戦死者や戦争で犠牲になった村民の霊をまつる二十五回忌の慰霊祭が、二十八日みたまをまつった同村の白玉之塔前で行われる。ひめゆり部隊や健児隊など自決した沖縄戦の悲劇は渡嘉敷島でも同じだが、その自決の異常さ、また、その島の戦争責任者である日本兵が生き残っているという現実が、さらにその悲惨さを生々しく伝える。集団自決やスパイ惨殺のウズの中にある赤松嘉次元大尉も二十五年ぶりに来沖、慰霊祭に参列する。多くの疑惑を残したまま鳴りを静めていた渡嘉敷島の戦争にまつわる事件は、沖縄の返還問題、日本の再軍備という論議が出ている中で新たに問題になってきた。渡嘉敷村内でも、赤松氏が来島することに賛否両論があるといわれ、問題は再燃しそうだ。
 慰霊祭(渡嘉敷村遺族会主催)は、二十八日午後一時から白玉之塔前で沖縄県護国神社の三好邦忠宮司の司祭で行われる。まずみたまをしずめるために「国のしずめ」の曲で始まり、のりと奏上のあと玉井村長や赤松嘉次氏(元大尉)らが慰霊のことばを述べる。そのあと、遺族のあいさつなどがあって約四十分で慰霊祭を終えることになっている。
 注目を集めている赤松氏ら一行は、二十八日午前九時すぎ泊港北岸から渡嘉敷島へ向かい、慰霊祭に参列したあと同村で一泊し、二十九日帰沖、同日夕大阪へ帰る予定。二十六日、赤松氏の来沖に反対して抗議した団体は二十八日朝も泊港で、赤松氏らの渡嘉敷行きを阻止するという。
 赤松氏が慰霊祭に参加することについて、当時の渡嘉敷村民はあまり語りたがらない。
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沈黙の巡拝行
赤松元大尉らけさ戦跡参り
 渡嘉敷島の集団自決。あるいはスパイ容疑惨殺事件にからむ問題の人-赤松嘉次元陸軍大尉とその部下、遺族たち十八人は、二十七日午前、南部戦跡を巡拝した。ひめゆりの塔、健児の塔、そして沖縄の司令官・牛島中将と長参謀長が自決した黎明の塔へと、降りしきる春雨の中をかさをさして黙々と回る
 赤松氏を含めた一行は、一般の観光客と同じように観光ガイドの話を聞き、記念撮影をし、なかには慰霊塔へ向かって手を合わせる人もいる。赤松氏は、終始、真一文字に口をつぐんだままひとことも話さない。摩文仁が丘の黎明之塔では、身を乗り出して眼下に広がる海岸線、絶壁にくだける白い波をみながら、二十五年前の状況を回想しているようす。一行のうちのひとりが「大尉はいろいろと悩んでいるようです。そっとしてやってください」と記者の質問を制止する。
 渡嘉敷島の慰霊祭に参列する赤松氏ら一行は、二十六日夕、沖縄いりしてから昨夜は、料亭で沖縄の踊りを鑑賞したという。二十七日朝は、新聞に報じられた「赤松氏来島」の記事を熱心に読んだそうだが、いぜんとして新聞記者のインタビューには「会いたくない。そっとしておいてほしい」と拒み続けている。一行は、二十七日午後、北部観光をし、二十八日渡嘉敷島へ向かう。
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1970(昭和45)年3月29日日曜日

渡嘉敷島
“悲劇のナゾ”混とん
しめやかに25回忌慰霊祭
 【渡嘉敷島で友利記者】沖縄戦で散った渡嘉敷の村民三百五十二人をはじめ、日本軍将兵らを含む五百余柱の二十五回忌慰霊祭が、二十八日午後二時から同村の白玉之塔で、しめやかに行なわれた。参列者は同村の遺族関係者二百五十人と元日本軍の生き残り十三人、それに本土の遺族三人。注目を集めた渡嘉敷島守備隊長の赤松嘉次元大尉は、那覇市泊港で同島郷友会青年部をはじめ民主団体の渡島阻止のため念願の慰霊祭に参加できなかった。玉井村長は、参列者へのあいさつで「赤松氏が塔前でざんげするはずだったが、来島阻止にあい、訪問できなかった」と述べ、沖縄戦史に汚点を印した民間人の集団自決にからむ悲劇のナゾを秘めたまま慰霊祭は静かな幕を閉じた。
 慰霊祭は沖縄護国神社の三好宮司の司祭で行なわれた。主催者の遺族会を代表して玉井村長から「ここでみたまを慰めることは反戦平和のいしずえになると思う」と報告した。
 弔辞は沖縄遺族会連合会をはじめ渡嘉敷小中学校生徒代表と続き同島に駐留した元海上てい身隊の連下政市第二小隊長が「この白玉の塔前で、みなさま方のみ霊を弔わんとするに、すでに幽明鏡を異にするといえども、一木一草、波の音、風の音にも、そのおたけびを感じ万感胸にせまり、ただ感無量。ひたすらにみなさま方のごめい福をお祈り申し上げるのみ。願わくば在天のみ霊よ安らかにわれらの弔いを、お受けくださらんことを願う」と、赤松元大尉の弔辞をささげた。
 ついで遺族や元隊員らが玉串をささげて幕を閉じた。このあとあいさつに立った玉井村長は「赤松隊長が、み霊を慰めるため謙虚にぎんげしたいと、慰霊祭に参加するはずだったが、反戦団体などの阻止でこれなかった。彼は那覇で謹慎している。しかし、赤松隊長が沖縄に足を踏み込んだことは、ざんげの気持ちの一端にもなろう」と述べた。連下元小隊長も「二十五年ぶりになつかしい島のみなさんにお会いでき涙のほとばしるのを禁じえない。赤松隊長は来島することができなかったが、十六人の部下が島のなくなられた方々と戦友の霊を弔うことができたのは、島の方々の理解と同情のたまものだ。この慰霊祭に参加したことだけでざんげの気持ちでいっぱいだ」とあいさつした。
 この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元隊長が本島まできていることを知らされても「肉親を失ったことは忘れないが、いまさら古傷にふれても仕方がない」といったことばが返ってくるだけ、本島でくり広げられた「赤松帰れ!」の騒ぎはウソのような「悲劇の島」二十五回忌の慰霊祭-。
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1970(昭和45)年3月30日月曜日

社説
沖縄戦の精神的清算
 沖縄戦当時、渡嘉敷島の人たちに集団自決を命じたと伝えられる赤松元大尉の来沖は、いろいろなさわぎを巻き起こしているが、この事件は、はからずも沖縄県民の戦争後遺症や、戦争責任の清算というテーマを提起した形となっており、今後の沖縄に精神上の大きな影響をおよぼすとみられている。
 赤松元大尉事件については、赤松元大尉のいい分や、渡嘉敷村の生き残りの人たちの話に、多くの食い違いがあり、二十五年という歳月を経た今日、その真相究明はかなり困難である。しかし、日本の国土であり、日本国民が住んでいる地域が、戦場になったのは沖縄県が初めてであり、最後でもあったのだから、人民の権利と、軍人の権力といったのが、あらゆる面で対立しそのあげく、軍事優先政策ということで、人民の権利が踏みにじられただろうことは、容易に想像できる。この観点から、この事件を見た場合、赤松という元大尉が、どうしたこうしたということより、当時の異様な社会環境にメスを入れることにより、二度とそのようなことをくり返さないよう、県民の体質の中に抗体をつくりあげることが先決のような気がする。
 この意味で、赤松事件は、県民に戦争のもたらした、あらゆる事象にたいしての精神面での清算を提起したものと考えてよいだろう。そして、この清算とは、沖縄戦による一般住民への被害はどうして起きたか、そういったことが、二度と起こらないためには、どうずればよいかということに全県民が真剣に取り組むことから生まれてこよう。
 沖縄戦での一般住民の死傷者は、十数万人といわれるが、なぜこれだけ多くの死傷者が出たかということを考えた場合、いままでの歴史は、すべて書き換えなくてはならないだろう。たとえば、沖縄県最後の島田知事だ。この知事は、死を覚悟して沖縄に乗り込んできたというので、一般には評判がよい。しかし、十数万人の非戦闘員を死傷させた責任ということを考えた場合島田知事がりっぱだという評価は、やはり戦前の忠君愛国的な視点からしか出てこないことがわかる。知事というのが、民生をつかさどる以上、有能な知事なら、そんなに多数の非戦闘員を死傷させることはなかったろうというわけである。沖縄戦当時、これらの人たちは捕虜になるなと指導したが、ヘーグの陸戦協定によると、非戦闘員が捕虜になるはずはないのである。つまり、戦争というのは、戦士と戦士の間で行なわれるものであり、非戦闘員は戦争の局外者ということである。島田知事は、大学で法学を専攻した人だから、これくらいの知識はあったはずである。そして、この知識があったら、どのくらいの県民が、生命を救われたろうかと考えると、島田知事が、国に生命をささげたというだけで、高く評価するわけにはいかないのである。
 沖縄戦で日本軍の総指揮をとった牛島中将についても同じことがいえる。軍人というのは、戦争をするための教育を受けている。したがって、牛島中将に課された最大の責務だっただろうが、牛島中将はこれを第二義的なものとして考えていたようで、この点では、名将という評価に疑問が出てこよう。
 このように、戦争責任の追及ということになれば、価値や評価の大きな転換が必要となるが、沖縄では、これがほとんどなされていない。本土では、戦後民主化のアラシが吹きまくり、従来の権威のすべてが否定されるという時期を経てきたが、沖縄では戦争の混乱が長く尾を引き、こういった精神革命まで、手が回らなかったという状況である。
 これでは、県民がいつまでも沖縄戦の後遺症に悩むことになる。沖縄の七二年返還で、日本の戦後は終わり、新しいスタートを切る時期がきたといわれるが、沖縄も、沖縄戦をすっかり清算しなければ、平和憲法の適用を受ける日本国民として、大きな立ちおくれを感ずることになろう。
 沖縄戦で、われわれは戦争の悲惨さを十分に体験した。これは、貴重な体験である。この体験から何かを学び取り、その具現に力を入れるべきだろう。そして、その時こそ、われわれは、真の意味で沖縄戦の清算をなしとげたのであり、新生平和日本国民としての発言力を獲得することになるだろう。
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真相はほかにある! 渡嘉敷島の集団自決
命令は下さなかった
私にも責任が…
赤松元大尉抗議を背に帰途へ
 渡嘉敷島での戦没者二十五回合同慰霊祭に参列するため二十五年ぶりに来沖した問題の人、赤松嘉次元陸軍大尉は、渡嘉敷島郷友会青年部はじめ民主団体の来県抗議などがあって、渡嘉敷島での慰霊祭に参加できなかったが、二十九日午後三時から帰郷を前に宿舎で記着会見した。この記者会見は記者団からの要請で行なわれたものだが、このなかで赤松氏は「私の知らないことなども来沖してわかった。不祥事件については指揮官としての私に責任があることなので、深くおわびします」と述べたが、集団自決の問題にふれると「異常状態では平常では考えられない行動に出てしまうことがあり、同じようなことで自決していったのではないか」と自決命令を下さなかったことの説明をした。記者会見には赤松氏のほかに、知念朝睦元副官、連下政市第二小隊長、谷本小次郎氏らの部下が同席した。記者会見の内容は次のとおり。

 -来沖したとき抗議があったのに対し、理解できないといったがいまでもそうか。
 赤松氏 私は知らないことは知らないと申し上げた。不詳事件で知らないこともあったが、当時、指揮官の部下統率がまずかったせいで、それは指揮官の責任であり深くおわびしたい。
 -めい福を祈るといって来沖したのに、渡嘉敷行きを中止したのはなぜか。
 赤松氏 渡嘉敷まで行きましたが、つごうがあってみんなと行動をともにできなかった。島にも上陸せず花束だけを慰霊塔へ届けた。ただ涙が出て感慨無量です。
 -集団自決を命じたことはないというが、住民を守るべきあなたが生きていて住民が死んでいる事実をどう思うか。
 赤松氏 ちょっとむずかしい。ただめい福を祈るのみです。この問題は戦場という特殊な場のことであって、生きていいるからどう、死んだからどいうということはいえないのではないか。どこから飛んで来るかわからないタマに次々当たってすぐそばで倒れるのに、自分にはタマが当たらなかったということと同じで、運としかいいようがない。生き残った者は日本の再建に努力する。これが人間の道だと思う。また、自決の問題では普通の状態でも自殺する人がいるように、同じような状態で、戦場では、強制されないのに自殺していったと考えられる。
 連下氏 軍自体は島も住民も守らなければならない任務を負っていた。雨が降っている中を住民がいっぱいごうへやってきた。兵隊さんいっしょに死なせてくれといってきた。悲そう感にかられて自殺したと思う。そういう心境だった。
 -集団自決を知ったのはいつか
 赤松氏 翌二十九日朝聞いたが、早まったことをしてくれたと思った。
 -その自決に追いやった責任をどうとったのか。
 連下氏 こうやって隊長がやってきたではないか-。
 赤松氏 責任というが、もし本当のことをいったらどうなるのか、大変なことになるんですヨ。本当のことを発表してもマスコミは取り上げないではないか(興奮した口調)。
 -では真理を聞かせてほしい。
 連下氏 いろんな人に迷惑がかかるんだ。いえない。
 赤松氏 私はきたときにもいったように、この問題はいろんなことを含んでいるので、ソッとしてほしいといったはずだ。
 -あなたがとった態度は立派だと思うか。
 赤松氏 これでよかったと思う。しかし、責任者だから命令をしたとかしなかったとかいうことは、いろんな事情があったにせよ、私の指導、作戦が悪かった。住民の犠牲もあるが、兵隊も死んでいる。戦場では本当に運だ。
 -渡嘉敷までモーターボートできながら上陸しなかったが。
 連下氏 隊長を行かせてほしくないという那覇在住渡嘉敷出身の人たちの話もあったので行かなかったのだが、島の人からは、なぜ赤松を連れてこなかったかと私に対する抗議があったくらいだ。
 -島の人の言い分と赤松氏との話には食い違いが多い。戦史をつくる意図はないか。
 赤松氏 いまのところない。

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“赤松氏の言動は無責任”
教職員会、激しく抗議
 渡嘉敷島での集団自決やスパイ容疑での惨(ざん)殺などの責任を問われている赤松嘉次元大尉に対し、教職員会は二十九日午後「赤松元陸軍大尉の即時退島を要求する」抗議声明書を空港で赤松氏に手渡した。抗議には福地曠昭政経部長ら十数人が集まった。
 抗議の内容は「私は巨大な機構のひとつの小さな歯車にしかすぎなかった、というような無責任な態度をとっているばかりでなく、約三百人の村民を自決させ、その慰霊にやって来るという恥知らずな無責任な行為は許されない。赤松氏は非戦闘員自決の責任をとって直ちに謝罪し、退島し、反戦平和の運動家として出直して来ることを要求する」というもの。
 教職員会は、この声明を二十八日開かれた第三十六回沖縄教職会定期総会で行い、二十九日帰途につく赤松氏を空港で待ち受け、手渡したものだが、赤松氏が「受け取ります」というのに対し、出動した警官六人にが赤松氏と教職員代表ら十五人との間に分け入り、手渡すのを妨げたため、ちょっとした混乱があった。
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“悪夢”よみがえる思い 白玉之塔慰霊祭
複雑な表情の村民
元隊員の姿にひそひそ
 集団自決、そして惨殺など、いまわしい戦争の惨事をひたすら思い起こすまいと努力してきた渡嘉敷島に、当時島に駐とんし、批判と非難のマトになっていた日本軍守備隊長が、二十六年ぶりに来島、内外に大きな波紋を投げている。問題の人・赤松嘉次元陸軍大尉は、二十五回忌の戦没者慰霊祭に参列するために来沖した。だが「来沖反対」の抗議などにあい、とうとう慰霊祭に出席できずに兵庫へ引き返した。以下は白玉之塔の立つ“悲劇の島”の表情だ-。(友利記者)
 二十五年前の三月二十八日、住民の集団自決があった。盆地の近くに、その集団自決者や戦没者など五百余柱を祭った白玉之塔が、渡嘉敷ワンを眼下に見下ろすように建っている。その塔の前で慰霊祭が行なわれた。過去二十四回の慰霊祭と同じように、村の人たちが小学生から七十を越える年寄りまで約二百五十人が塔の前で、「みたまよ安らかに-」と手を合わせた。だが、二十五回忌はこれまでと違っていた。この地に駐とんした日本本軍生存者十三人と戦没者の遺族三人が初めて参加したのだ。しかも、この二十五回忌に参列するために、島民からだけでなく沖縄の人たちからも“卑きょう者”のそしりを受けている赤松元隊長が、那覇まできながら、慰霊祭への参列反対で出席できない事情も加わっていた。慰霊祭は「しめやか」というには、しらけたふんいきさえも感じられた。涙を浮かべ、ハンカチで目頭を押える人もわずかの年輩者にとどまった。参列した島民は、祭壇前列に並んだ十六人の本土からきた元隊員と遺族に関心を向けていた。「二番目にすわっている人がだれだれだ」「昔のおもかげは少しもないじゃないか」-など。問題の人・赤松元大尉からも「皆さまの尊いいけにえは決して無ではなく平和な日本建設の礎として史上に高くたたえられるべきだ」との弔辞が寄せられた。
 この日の慰霊祭は、普通どこの慰霊祭にも見られるように変わったところはなかった。ただ、慰霊祭に参加するために来沖しながら参加できなかった赤松元隊長が、慰霊の途中、米民間人のモーターボートをチャーター、那覇から当時の副官である知念朝睦氏と星条旗を掲げて渡嘉敷を訪れ、桟橋で中学生に頼み、花束を「白玉之塔」まで届けたことだ。それに「残虐の限りをつくした元隊長の顔なんか見たくない」といっで参列しなかった島民たちがいたということも、普通の慰霊祭では考えられないことである。
 二十八日正午前、那覇から元隊員や遺族を乗せた船が渡嘉敷港へ入港したとき、桟橋へ出迎えたのは村の収入役や議会の人たち三人ほどで、あとは小中学生が数十人。島の人たちは、海岸を遠巻きに、この“外来者”を見守った。慰霊祭が終わって元隊員の人たもは知人の家をたずねたが「どこでもなつかしがられ歓迎された」と隊員たちは語った。慰霊祭を終わって二十九日、渡嘉敷港から引っ返す際は、きた時とは逆に数十人の島の人たちが隊員を見送った。
 だが島の人たちみんなが、この隊員たちを歓迎したのではない。「元隊員がくるなら慰霊祭には行かない」-と、その日漁に出た字阿波連の漁民は妻と二人のむすこを集団自決でなくした人だった。また、字渡嘉敷で船員をしている五十年配の人は「自決場へ行ったが幸運にも手投げ弾が不発で全員無事だった」と当時を回想した。だが「どの兵隊がだれを殺し、どんなことをしたか村の人たちはみんな知っでいます」ともいった。「こんど来島した隊員たちは比較的村民とも親しかった人たちですヨ。だから来れたんです。もし島に当時悪虐のかぎりをつくした兵隊がきたら、ただでは帰れないぞしょう」と。また老いた農民は「赤松が、よくくる気になれたものだ」と吐き捨てるような口ぶり。
 渡嘉敷村では、六百戸のうち八〇%が戦争の被害にあっている。三月二十八、二十九の両日は各家庭とも線香をあげて霊を慰めるが「もう兵隊たちは来ない方がいい」という意見が多く聞かれる。
 住民が犠牲になり、住民を守る任務を負わされていた軍隊が生き残っている現実から、だれが村民を自決に追い込み、スパイ容疑で斬殺したのか。これまで「渡嘉敷島の戦闘概要」(渡嘉敷村遺族会編)では、赤松隊長が自決命令を下したことになっている。だが当の赤松氏は、それを否定、旧部下は「真相は別にある。これをいえば村民への影響が大きい」として「自決は村民の間に責任がある」といわんばかり、赤松氏の来沖によって、長い間疑惑が持たれていた問題は、またまた、新たな波紋を広げている。問題の集団自決場はすぐとなり合わせに米軍基地があり金網を張りめぐらせ、自決場の谷には、かん木がおい茂って、二十五年前の惨劇をしのぶよすがもない。
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話の卵
ナゾに満ちた赤松事件
 「この白玉之塔前で、みなさま方のみ霊を弔わんとするに、すでに幽明境を異にするといえども、一木一草、波の音、風の音にも、そのおたけびを感じ万感胸にせまりただ感無量、ひたすらにみなさまのごめい福をお祈り申し上げるのみ」願わくば在天のみ霊よ安らかにわれわれの弔いをお受けくださらんことを願う」。目下大きな話題をよんでいる赤松元大尉の渡嘉敷島での慰霊祭の弔辞である。
 この赤松事件は、戦後二十五年にして戦争の悲惨さをあらためて再認識させた。「いまさらは古傷にふれても仕方がない」「多くの村民を自決させ、その慰霊にやってくるという無責任な行為は許せない」といったさまざまな論議を巻き起こしているのが実証している。渡嘉敷島における集団自決など戦史に残る悲惨さは多くの人が知るとおりであるが、赤松氏の来沖でその真相が明らかになるものと思われた。
 だが、当の赤松氏は「自分のしらないことなども来沖してわかった。不詳事件については指揮官として私の責任かあるので深くおわびしたい」と語るのみで、ついに事件の真相についてはいっさい明らかにしていない。それどころか「当時の事件はいろいろなことを含んでいる。ソッとしてほしい」と語り、また当時の小隊長は「もし本当のことをいったらどうなるか。大変なコトになるんですよ」とひらきなおりスゴミをきかせている
 第三者にしてみれば、まったくどうなっているかと問い詰めたくなる情景である。赤松氏やその周辺にいわせると、赤松氏がすべて悪者扱いにされ、他の関係者は知らん顔で押し通しているような印象を受ける。真相を聞かせてほしいちう記者団の質問に対してもかつての部下は「いろんな人に迷惑がかかるんだ。いえない」と語っている。赤松氏が当時の問題を明らかにしないかぎり真相は永遠のナゾとして残されるだけだろう
 ともあれ、赤松氏の言動は多くのナゾを後世に残したといってよかろう。そして一般には、なぜ事情を明らかに出来ないかという疑惑が生じてくる。推理小説にみられるごとく想像もつかないような人物がいるのであろうか。もしそういう人物が存在するなら、いまからでもおそくない。勇気を出して訴え出て、真相を明らかにするがよい。このことが集団自決という悲惨な事件に対するザンゲになるのではるまいか。そのあとで戦争責任をどうするかをみんなで考えてみたい。 (泡)
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